第90回 “愛さえなければ”


 愛がなければ生きてはいけないが、愛が仇となり、道を踏み外してしまうことも多々ある。そんな矛盾だらけの厄介なものに、翻弄されてもなお執着する人たちの姿も、面倒くさいがゆえに、妙に心に引っ掛かってしまう。

 ともに衝撃の実話を叩き台に、家族への愛を全うすべく、命を懸けて危険の泥沼に身を投じていく父親にリアルに迫る力作が、『THE ICEMAN 氷の処刑人』と『オーバードライヴ』。前者は、愛する妻や娘との幸福な暮らしを死守せんと、気が遠くなるほどに殺人を重ねる実在したヒットマンを、演技派怪優のマイケル・シャノンが、後者は、友人の罠にハメられて刑務所送りになった別居中の息子への罪滅ぼしに、凶悪な麻薬組織に潜入する無謀な運送屋を、アクション・スターのドウェイン・ジョンソンが、両者タイプは異なれど、愛する者を想う切実さを全身からにじませながら、狂気の沙汰の連続に、強引なまでの迫力と、奇妙な説得力をもたらしている。

 愛しの彼女への恋心を遺したまま、理不尽に命を奪われた青年が、仮の姿を得て、彼女の前に再び現れる。こんな『ゴースト/ニューヨークの幻』(90)あたりを彷彿とさせる、一見ロマンティックな設定をもつインド映画『マッキー』であるが、この世に未練たっぷりの青年が生まれ変わった新たな姿は、なんとハエ!身勝手な嫉妬心とプライドから自分を殺めた、極悪非道な大金持ちへの復讐を果たすべく、懸命のアプローチで自身に気づいてくれた彼女を有能なサポート役に、あの手この手で闘いを挑む。そんな史上最軽量のヒーローの、いじらしく健気な奮闘ぶりが、インド映画ならではの過剰気味のサービス精神と相まって、時に爆笑を、時に熱い涙を誘うのである。

 画家として成功したい野心と、それは叶わぬ夢と自覚する諦観とが、密やかにせめぎ合うヴィンセント・ヴァン・ゴッホの謎多き晩年に、彼を想い、慕い、拒絶する、周囲の様々な人たちを通して光を当てる、静かな傑作が『ヴァン・ゴッホ』。無愛想だが、絵画への内なる情熱を秘めたゴッホに、次第に惹かれていく若い娘の一途な愛さえも、不遇な画家の底なしの孤独を、癒すことはできない。フランスの異才・モーリス・ピアラの透徹したまなざしは、死の誘惑へと否応なく駆り立てられていったゴッホの内面を暴こうとする代わりに、彼の精神世界の断片を物語る、絵の中に描き遺された情景や、報われずとも確かに存在していたはずの、彼を取り巻く愛のきらめきへと向けられ、キャンバスに見立てたスクリーンの上に、それらは丹念に映し出されている。

(映画ライター 服部香穂里)

第89回 “彼岸にて”


 愛妻の死、持病のリューマチと闘いつつも、絵筆を走らせ続けたルノワールの晩年を、創作意欲を否応なく駆り立てる最後のミューズや、後に映画監督として大成する息子・ジャンらとの関係などを絡めながら描く「ルノワール 陽だまりの裸婦」。血なまぐさい世に敢えて背を向け、美しいものだけを見つめ続けた画家の手によれば、それが肖像画の類であれ、ある種浮世離れした、まばゆいオーラに包まれる。そんな彼岸とも此岸ともつかぬ異様な情景を、リー・ピンビンのカメラは、ルノワール絵画から抜け出たがごとき瑞々しさを、スクリーンの隅々にまで濃密に行き渡らせながら、観る者を目移りさせ、困惑させてしまうほど、リアルに捉えるという仰天の偉業を、見事に成し遂げている。

 えげつない粘着性と、呆気にとられる大胆さとを貪欲に両立させてきた、豪腕の鬼才・ブライアン・デ・パルマの真骨頂ともいえる快作(≒怪作)が「パッション」。表面上は、自らの出世のためなら手段を選ばぬ、上昇志向の塊のキャリアウーマンと、そんな彼女にすべてを捧げて尽くすも、ある仕打ちを機に、殺意すら抱くようになる有能な部下との、ありふれた愛憎劇。ところが、スクリーンいっぱいに優雅に展開していた官能的なバレエが、艶めかしくもショッキングな殺人現場に画面を分かたれ、両者を明確に隔てるべき仕切りさえ、不安定にブレ始めると、生と死、現実と妄想、正気と狂気がない交ぜにされ、いつしか観る者は、不謹慎なカタルシスに満ち満ちた、混沌の境地へと誘われてしまうのである。

 1年前の息子の事故死から、未だ立ち直れずにいる京劇の名女優と、それぞれに抱えた欠落を必死に埋め合おうとする、かつてのフランス映画を彷彿とさせるような微妙なバランスの上に成立した友情で結ばれた若い男女三人の、束の間ながらも、かけがえのない交流を情感豊かに綴る「ブッダ・マウンテン〜希望と祈りの旅」。ひょんなことから、ひとつ屋根の下に暮らすことになった四人は、生活スタイルも食の好みもバラバラで衝突を繰り返すが、お互いに秘めてきた癒し難い傷や孤独が親近感を生み、ともに観音山へと旅に出る。彼岸の果てのごときその地で、自問自答を繰り返し、大切な何かを悟り、選び取る彼女たちの凛とした姿が、死者が優しく手招いていそうな、奇妙な安堵感すら漂う中で、深く胸に突き刺さる。

 夭折したボリス・ヴィアンの、時代を超えて愛され続けている名作に、甘さの中にも苦みを利かせた、シュールかつリアルな異色の恋愛映画を世に送り出してきた、ミシェル・ゴンドリー監督が挑んだ逸品が「ムード・インディゴ うたかたの日々」。ある男女の運命的な出逢いがもたらす希望と、その後に襲いかかる絶望が、幸福な日々のまぶしさとはかなさを際立たせるように、カラフルな色彩に彩られた序盤から、残酷なまでに色褪せていくクライマックスにかけて、しみじみと痛切に迫ってくる。彼岸と此岸に引き裂かれてしまう恋人たちのメロドラマではあるが、演技派・ロマン・デュリスとオドレイ・トトゥが見せるとびっきりの笑顔が、限りある生を終えてもなお、永遠に残る愛を、チャーミングにつなぎ留めている。

(映画ライター 服部香穂里)

第88回 “ええ塩梅


 某カレーチェーン店の前で、“冷たいカレー あります”とのフレーズを目にする度に、“・・・いらんやろ!”と、ツッコミを入れたくなる。冷製パスタまでは許せるが、冷やしラーメンには抵抗を覚えるように、味うんぬん以前に、そのものにふさわしい程よさ、頃合いがあるのではないかと。

 自殺者が後を絶たない、過去とも未来ともつかぬ社会情勢の中、その手助けをする品々ばかりを扱う店を営む一家のジレンマと、かすかな希望を描く「スーサイド・ショップ」は、死に対して、ある種の美を見出してきたパトリス・ルコント監督が、<アニメーション×ミュージカル>という、それぞれに非現実性が肝となるジャンル映画が掛け合わせられた枠組みを最大限に活かし、新境地を拓いた佳篇。徹底的にカリカチュア化された死が示唆するのは、その前提となる生でさえ滑稽なのだから、それを無理矢理終わらせたところで、意味などないということ、過剰な期待を抱かず、ちょっと旨いものやら大切な誰かにめぐり逢うなど、ささやかな喜びを積み重ねていけば、その日は自ずと訪れるという、今の時代にも合う“ネガポジティブ”な人生論である。

 英国貴族の出身でありながら、遠回りの末に、京都の大原に居場所を見出したベニシア・スタンリー・スミス女史の、ゆるやかだがブレない暮らしぶりを淡々と追いかけた「ベニシアさんの四季の庭」は、NHKで再放送中の『猫のしっぽ カエルの手』のダイジェスト版、あるいは集大成的な作品かと思いきや、山崎樹範の聴き心地のよいナレーションには馴染みそうにない、公共の電波にのせるには少々刺激の強い、男女間のドロッとした領域にも何気なく踏み込む、映画ならではの強度をもつ。波乱万丈すぎる人生において、自ら招き寄せるがごとく訪れるターニングポイントに対しても、ひとつひとつ実直に向き合ってきた彼女ゆえの哲学が放つ、深遠な説得力の秘密も、ほのかに垣間見える佳篇である。

 小林政広監督が、「春との旅」(10)以来、再び仲代達矢とタッグを組む「日本の悲劇」。典型的な日本家屋から一歩も出ることなく、フィックスのカメラによる一見無愛想なモノクロの映像と、緻密に設計された奥行きのある音とが相まって、平凡だが、それなりに幸福な暮らしを築いてきたある家族に、ゆっくりと、しかし、確実に忍び寄る苦難を、正にタイトル通り、観る者それぞれに否応なく分かち合わせてしまうかのような吸引力を発揮する。あまりにも多くのものを理不尽に奪い去った東日本大震災、長年連れ添った伴侶の死を経て、仲代渾身の力演が光る余命わずかの老父が、唯一の心残りであるひとり息子(北村一輝、仲代に引けを取らぬ妙演)のためだけに見せる、頑なではあるが尊厳すら感じさせる決然たる覚悟は、日々途方に暮れている遺された者たちに、厳粛な問いを投げかけてくる。

(映画ライター 服部香穂里)

第87回 “変わるべきか、変わらぬべきか・・・”


 ゴダール、カラックス、キェシロフスキら、錚々たる異才たちから魅力を引き出されてきたジュリー・デルピーは、移ろいゆく映画界において、凡作に出演を重ねるよりも、監督業に活路を見出した、稀有な存在である。デルピーふんする主人公・マリオンの両親役を実際の父母が演じるなど、私的な笑いに彩られた『パリ、恋人たちの2日間』(08)から4年、マリオンの米国人の恋人(当時)を大いに困惑させた彼女の家族たちが、舞台をアウェイに移す『ニューヨーク、恋人たちの2日間』でも、大暴れ。しかしそこに、前作でキュートな母親を好演した後、09年に亡くなったデルピーの実母・マリー・ピレだけがいない欠落感が、笑いの波状攻撃におののく前半から、“魂”のありかをめぐるシリアスで壮大な終盤へと急転する伏線となる。自らの少女時代を色濃く反映させた傑作『スカイラブ』(11)に続き、プライベートな体験を普遍的な人間ドラマに昇華させ、監督としてさらなる境地へと進化を続けるデルピーは、かつて彼女を導いた名匠たちに、名を連ねつつある。

 静謐なモノクロの映像が、灼けつくような男女の愛によって、次第に熱や色を帯びていくような錯覚すら覚えてしまう、ポルトガル発のマジカルな逸品が『熱波』。それなりに満ち足りた暮らしを過ごしていたお嬢さん育ちの人妻が、夢も野心も満々のハンサムなアウトローとの出逢いにより、生まれついての冒険心に火が点き、禁断の愛の深みにはまり込んでいく。『シザーハンズ』(90)では、いつまでも歳をとらない人造人間のエドワードが、今や老婆となった最愛の女性の、記憶に残る若い頃のままの姿の雪像を彫り続けるエンディングが、一層メロドラマ性を高めていたが、本作では、近づきつつある死期を悟る老女の、漠たる虚無感に支配された現在と、少なからぬ美化や装飾が、サイレント映画風のタッチで違和感なく溶け込んだ半世紀前の過去とが、一切交錯することなく断絶されたままの、完全二部構成をとったことで、永遠に引き裂かれることとなった悲恋の切なさが、ドラマティックに際立っている。

 ロサンゼルスの重犯罪が多発する地区を担当する凸凹警官コンビの命懸けの日々を、ヴィヴィッドに切り取った意欲作が『エンド・オブ・ウォッチ』。彼らにとっての変わらぬ日常とは、いつ人生に終わりをもたらすやもしれぬ、予測不可能な危険を常に伴うが、それゆえに、過酷な現場にもともに飛び込んでいける、バカがつくほど勇敢な相棒を心から信頼し、お互いの命を預け合っている。そんな不安定な毎日のためか、交際が長続きしない白人警官に、片や高校時代の恋を実らせ、第1子の誕生も間近のメキシコ系の警官は、結婚の何たるかを熱くレクチャーして、恋に臆病な相棒の背中を押してやる。銃社会の最前線に立たされる彼らだからこそ成立する、突き抜けたユーモアと自虐性たっぷりのアイロニー溢れるテンポのよい会話が、ふたりに次々と襲いかかる謎の刺客たちとの緊迫感溢れまくる攻防と、絶妙のコントラストをなしている。

 筋骨隆々の体格に恵まれながら、どこか不安げで憂いを帯びた表情が気になって仕方がなかったチャニング・テイタムが、彼の10代終わりの実体験をベースに、男性ストリッパー役で完全にはじけきる快作が『マジック・マイク』。テイタム自身も、ストリッパー時代を経て、ハリウッド・スターへと大きく飛躍したように、本作の登場人物たちも、人生の岐路に立ち、それぞれの選択をする。パフォーマンス面で全篇をエネルギッシュに牽引するテイタムに対し、人気TVドラマ「SEX AND THE CITY」(00)での呆気にとられる本人役が引き金となったのか、最近も『バーニー/みんなが愛した殺人者』(11)、『ペーパーボーイ 真夏の引力』(12)など、まったく媚びない度肝を抜く芝居を連発しているマシュー・マコノヒーが、浮き沈みの激しい男性ストリップ業界の権化のようなオーナー役を怪演し、爽やかな青春映画に、アダルトな雑味を利かせている。

 命を燃えつくす前に、やせ衰えた肉体をもさらけ出すダンサーと、そんな被写体の並々ならぬ決意を真摯に受け止めるカメラ、さらに、一蓮托生ともいえる双方の強固な共闘関係に、観る者を否応なく引きずり込む『そしてAKIKOは・・・〜あるダンサーの肖像〜』は、そんな三者の“覚悟”がヒリヒリとせめぎ合い、奇跡的な映画体験を生む。独自のダンスを探求し続けるアキコ・カンダの素顔に迫る『AKIKO─あるダンサーの肖像─』(85)以来、アキコと親交を深めていた羽田澄子監督は、本作の撮影後すぐに亡くなったアキコ渾身の最後の公演を軸にしつつも、若き日の彼女の舞いをもふんだんに盛り込むという、ある意味残酷な道を選ぶ。しかし、どれほど羽田監督が意図していたのかは定かではないが、脂の乗り切っていた時代のダンスによりも、歩行もままならぬ、まるで瀕死の白鳥のような晩年の姿にこそ、ひとり息子の子育てなど一切を姉任せにしてでも、ひたすらダンスに没頭してきたアキコのダンサーとしての誇り、彼女いわく“哲学”が、より清らかさや純粋さが凝縮された形で体現されていることに、感嘆の涙が溢れ出てくるのである。

(映画ライター 服部香穂里)

第86回 “グレート!”


 これまでにも度々映像化されてきたF・スコット・フィッツジェラルドの“The Great Gatsby”を、よくも悪くも過剰な演出で、映画界でも特異な地位を築くバズ・ラーマンが、一大センセーションを巻き起こした「ロミオ+ジュリエット」(96)以来となるレオナルド・ディカプリオとタッグを組み、イマジネーション豊かに3D映画化した「華麗なるギャツビー」。謎多きギャツビーの唯一の理解者となる隣人役に、実生活でも古い付き合いのトビー・マグワイアをディカプリオ自ら指名したことで、彼の持ち味でもあった素のナイーヴさが久々に生き生きと甦り、ふたりのリアルな関係性が、マジカルな輝きをもたらす好篇に仕上がっている。ふと“great”を手元の英和辞典で引いてみると、“華麗な”の代わりに、ものすごい数の語義が・・・・・・。ってなわけで、この曖昧で複雑で豊潤な語句で形容したくなる作品を集めてみたい。

 ロングラン・ヒットを飛ばした「レ・ミゼラブル」(12)では、おいしい見せ場をさらっていく母親役のアン・ハサウェイに、ヒロインの座を譲った感のあるアマンダ・セイフライドの、その今にも落っこちそうな強烈な眼力を存分に生かしきった快作(怪作?)が「ファインド・アウト」。正体不明の男に拉致された現場から、辛うじて自力で脱出するも、犯人はおろか証拠すら掴めずじまいの警察からは、自作自演の疑いをかけられるヒロインが、突然消えた妹も同一犯の手口と確信し、単独で捜査を敢行する。“誰も自分を信じない”ことを逆手にとり、道行く人を、やたらとドラマ性に富んだ嘘を畳みかけて翻弄し、豪快にひとり相撲をとり続けていくグレートなキャラクターゆえ、予想外の結末まで、その一挙手一頭足から目が離せなくなってしまう。

 ある日突然、一家の大黒柱を亡くした家族の再生を、オーストラリアの厳しくも豊かな自然を背景に、温かく描き出す「パパの木」。この邦題は、8歳の娘を乗せたまま、運転中に心臓発作を起こした父親の車が、家の庭に立つ大木にぶつかって止まったために、その木が、一家にとって父親の化身のようになっていくことに由来する。開巻直後に姿を消すも、父親なるものの存在が作品全篇を支配しているように感じるのは、監督が惚れ込んだという表情豊かなイチジクの木に拠るところも大きいが、薄れゆく意識の中、大切な娘を守りたい一心で、少しでも安全な場所へとハンドルを切った父親の精一杯の“遺言”が、物言わぬ木を、いとおしい生きものへと変貌させるからである。グレートな最期は、悲しみに暮れる遺された者たちにも、ある種のカタルシスをもたらすのかもしれない。

 お弁当というのは、子どもにとっては嬉しくもあり、ブルーの種でもあり、彼らに社会の本質の一端を、何気なく残酷に垣間見せてしまう。そんな厄介な素材を、現実が直面する深刻な問題を静かに忍ばせながら、軽妙に料理してみせたキュートなインド映画が「スタンリーのお弁当箱」。日本であれば、お弁当の中身の違いを発端に、子ども同士のみみっちい抗争などへと発展させてしまいそうだが、映画大国のゆとりなのか、家庭の事情でお弁当を持って来られないクラスの人気者の少年のため、監督自ら演じる憎まれ役の国語教師を相手に、様々な知恵を絞って対抗する、子どもたちの揺るぎない団結力こそ、本作の美点。個性や才能を認め合い、無限の可能性に満ちた彼らの自然な表情がグレートな、愛すべき小品である。

 “感動の実話”の映画化と聞くと、自ずと身構えてしまうのは、クライマックスを劇的に描こうとすればするほど、そこから逆算される過程が、単なる傍観者には、ぞんざいに見えてしまうからか。しかし、2004年のスマトラ島沖地震から、奇跡の生還を果たした実在の一家をモデルにした「インポッシブル」は、津波が与える肉体的苦痛をも生々しくヴィジュアル化するなど、そんな先入観を粉々に打ち砕く。未だに飛行機が苦手な怖がりの母親が、家族と訪れたリゾート先のタイで大津波に遭遇し、生死の境をさまよいつつ、眠れる力を次々と覚醒させていく。まだまだ生きたかったであろう多くの犠牲者たちの声なき叫びを受け止めるがごとく、瀕死の重傷を負いながらも自分らしさを失わず、家族との再会をあきらめない母親役に真摯に挑んだナオミ・ワッツの壮絶な力演は、正にグレートの称号こそがふさわしい、神々しさを放っている。

(映画ライター 服部香穂里)

第85回 “あるものねだり


 言葉を扱う身には、まぶしすぎる世界が広がる「舟を編む」に感銘を受けて以来、思いつく語句を勝手気ままに定義し、暇をつぶしている。〔暇〕:欲望の需要と供給とのバランスが著しく欠けた状態、〔欲望〕:生きるための本能的な動機……ってな風に。欲望にも多々あれど、満たされているものを欲しがり、それと気づかぬうちに手放すような、無欲なのか貪欲なのか、損ばかりしている人びとに、なぜか惹かれてしまう。

 ひたすら“今、何を食うか”に執着する下戸の自由人を、松重豊が快演した『孤独のグルメ』(12)なんてドラマもあったが、誰と、いかなるシチュエーションで食うか(或いは食わないか)に焦点を当てるうちに、幾重もの人間模様が徐々に浮かび上がっていくユニークな逸品が、「朝食、昼食、そして夕食」。行きずりの一夜の続きに朝食をともにする男女、既婚の元彼女からの突然のランチの誘いにとまどいつつ抗えないストリートミュージシャン、ゲイであることをひた隠しにする兄にディナーを振舞おうと、同棲中のボーイフレンドと奮闘する弟、一向に現れない恋人を待ちわび、朝、昼、晩と健気にキッチンに立つ俳優など、最高にも最悪にもなり得る食事のひとときが、それなりに満ち足りていたはずの暮らしに、悲喜こもごもの衝撃をもたらしながら、波乱の一日を闘い抜いた人物たちを、新たな朝食の待つ明日へと導いていく。

 実話を基にしたとは信じ難い怪作「エミリー・ローズ」(05)で、“事実は小説よりも奇なり”をダイナミックに実証したスコット・デリクソン監督が、理屈では解明できない日常に潜む恐怖を、ただならぬ緊張感を持続させながら具現化してみせた「フッテージ」は、久々に登場した堂々たる正統派ホラー。理解ある妻や、ふたりの子どもにも恵まれるも、付いて回る“一発屋”の称号を払拭したいノンフィクション作家が、夢よ再びと賭けに出て、未だ捜査が暗礁に乗り上げたままの凄惨な事件の現場となった片田舎の家に引っ越してくる。家族への愛情と、作家としての野心との板ばさみにあい、泥沼へとはまり込んでいくヘタレ文士にふんしたイーサン・ホークの、得体の知れない存在に怯えまくる怖がり演技も絶品で、同ジャンルの名作群をミックスさせたような物語に、奇妙なリアリティを与えている。

 “大人は判ってくれない”的な内容を想像させるナイーヴな邦題に反し、もはや大人が子どもにとっての脅威となり得ない今の世相をシニカルに反映させつつ、“大人に判ってくれとも思わない”と、やけっぱちに腹をくくる若者像を繊細に描き出す「孤独な天使たち」。母親が違うだけで、まったく異なる人生を強いられてきた姉弟が、ひょんなことから、忘れ去られたかのような地下室でともに過ごす、濃密でかけがえのない7日間。70歳を越えて身体の自由を奪われるも、いい意味で“枯れた”名匠・ベルナルド・ベルトルッチは、才能や貴重な時間を持て余し、漠然と自らを傷つけてきたふたりが、支え合いながら何かを掴みとっていくさまを、祖父のごとき目線で静かに見守り続けることで、いつになく瑞々しい青春映画を撮り上げ、新境地を開く。

 お互いがお互いを想うゆえに、つまらないプライドや、ささいな誤解が邪魔をして、ひどく遠回りをしてしまった男女の心の軌跡を、過去と現在を巧みに交錯させながら、情感豊かに綴る「建築学概論」は、いわゆる韓流ブームの前夜に相次ぎ公開され、日本の映画ファンを魅了し続けていた、韓国ならではの上質なメロドラマを彷彿とさせる佳篇。ままならぬ人生をリセットするべく家を建てる決意をした女性と、ほろ苦い初恋相手の希望を叶えようと奔走する建築士が、15年もの空白の時間を埋めるうちに、それぞれが秘めてきた、伝えられなかった想いにまで触れてしまう不器用な姿は、手中にあったはずの幸せを無防備に台無しにしてきた、観る側の古傷をも、じくじくとうずかせる。歳月の重みを痛感させながら、深い余韻が広がるエンディングは、“あの頃”の記憶を胸に、次のステージへと向かう彼らの切ない決意を、美しく照らし出す。

(映画ライター 服部香穂里)

番外編 『魔女と呼ばれた少女』紹介コラム


 闇に覆われた絶望の淵に陥る時、生への拠りどころは、どこに求められるのだろうか。

 脇目もふらずガムシャラに駆け抜けた青春、甘じょっぱくも純粋だった初恋、あるいは、それらを育み、今も見守り続けてくれているに違いない故郷・・・・・・。少なからず美化された来し方への逃避や執着は、いかなる時も妄想たくましい人間にのみ与えられた、希望への最後の切り札なのかもしれない。

 しかし、本作の主人公のコモナは、14歳の若さで、そのすべてを奪い去られる。穏やかな暮らしを営んでいた村から反政府ゲリラに拉致させられた上、自身の手で父母を殺めるという残酷極まりない通過儀礼を経て、子ども兵士として、来る日も来る日も最前線に立たされる。生死の狭間をさまよう過酷な日常の中で、運命的な恋におちた少年とのささやかな幸せさえも、一瞬にして崩れ落ちてしまう。

 逃げ場も居場所もないコモナには、なぜか死んだはずの人たちの姿が見える。想いを現世に遺したまま、理不尽な死を唐突に迎えた彼らは、同じく無意味な闘いを強いられるひとりの少女に、憐れみと慈愛に満ちたまなざしを送る。土着的かつサイケデリックな風貌で、強烈なインパクトを放つ亡霊たちは、時にコモナを苦しめつつも、“魔女”として屹立するより他に道のない、か弱き乙女の小さな背中に寄り添い、孤独にふるえた迷える魂をも救済する。

 世を達観するかのような成熟した凛々しさで、全篇を牽引する一方、時折見せる笑顔に、あどけない愛らしさが覗く、主演のラシェル・ムワンザは、ベルリン国際映画祭で銀熊賞に輝くなど世界中で絶賛を浴び、故国のコンゴでも、希望の象徴となった。一生分の痛みや、はかなく散った愛の残像を心に刻み、それでも、明日へと一歩を踏み出そうとするヒロインがまぶしい、深い余韻に包まれる名篇である。

(映画ライター 服部香穂里)

◆第七藝術劇場にて4月下旬公開予定!作品詳細は→こちら

第84回 “人生の苦楽園


苦あれば楽、楽あれば苦あり。
つまずき、よろめき、すっ転んでも、深い闇の中に、光を求め続けた人たちの物語。

 出たとこ勝負の要素の強いドキュメンタリーは、製作過程で、最も劇的に変貌する可能性を秘めたジャンルであるかもしれない。
 映画人としては避けて通れないとばかりに、震災を題材とした作品が絶え間なく作られることには、正直とまどいを隠せないが、『先祖になる』は、陸前高田市で被災後も、俺流の哲学を凛と貫き通す一個人にのみ向き合うことで、一線を画している。御年77歳の佐藤直志氏は、津波で長男を亡くすも、ボロボロになった自宅に住まい続け、米やソバを植え、木こりの才を生かし、自ら復興の象徴となるべく、その土地に新居を建てると決意する。有言実行型の陽気で頑固な爺さんと、その言動を漏れなく撮るカメラとの共闘関係は、直志氏の病や愛妻との別居などの波乱をも飲み込みながら、晴れやかなエンディングへと観る者を誘う。
 60年代後半、際立つ才能から将来を期待されつつも、商業的失敗により、アメリカの音楽シーンから姿を消した孤高のミュージシャン・ロドリゲスと、遠く離れた南アフリカの地で、死亡説も浮上していた彼の消息を徹底的に調べ上げようと奮闘する熱狂的なファンらの姿を丹念に追い、本年度のアカデミー賞で長篇ドキュメンタリー映画賞に輝いた『シュガーマン 奇跡に愛された男』。そこらのフィクション以上に心を揺さぶり続ける予測不能な展開に、思わず世の中も捨てたものではないと錯覚したくなる、えも言われぬ幸福感に包まれる佳篇である。

 スザンネ・ビア監督作品から、アカデミー賞外国語映画賞候補となった『ロイヤル・アフェア 愛と欲望の王宮』まで、どこか隙のある色男を演じさせると格段に光るデンマークの演技派・マッツ・ミケルセンが、カンヌ国際映画祭で主演男優賞を受賞した注目作が『偽りなき者』。今回、彼がふんする離婚したての四十過ぎの男が犯すささやかな過ちは、自分に恋心を寄せる幼稚園児を、悪気もなく子ども扱いしてしまったこと。本気モードの告白を爽やかな笑顔ではぐらかされ、大いに傷ついた恋する乙女の何気ない嘘が、仕事や友人、大切な相棒など、彼のすべてを奪い去っていく。一変する周囲の偏狭な仕打ちに、心身ともに打ちのめされながらも、誇りを失わず、孤独な闘いを続ける男の魂に肉迫するミケルセンが、人生の理不尽さと、それでも尊厳をもち続ける強固な意志の凄みを、見事に体現している。

 人間の生と性、そして、その痛々しくも激烈な発露の果ての死を、フィルムに鮮明に刻み続けてきた若松孝二監督の、不思議な因縁に導かれるがごとく、最後の作品となってしまった『千年の愉楽』。幸か不幸か、代々美しく生まれついたがゆえに、その色気に溺れてしまう女たちに、とめどなく快楽と痛みを与え続けた末、自身は生き急ぐかのように、若々しい生命を散らしていく男たち。愚かしくも憎めぬ彼らに注がれる若松監督のまなざしは、いつにも増して穏やかで、親心にも似た慈愛に満ち溢れている。かくして、従来の若松作品から沸き立つエネルギーを密やかに忍ばせながら、清流のように澄みわたり、新鮮で瑞々しい余韻を残す1作となった。

 年齢も国籍もまるで異なる男女が、異邦人であるという共通項を拠りどころに、イタリアの水辺の小さな街で、儚くもかけがえのない時間を過ごす『ある海辺の詩人小さなヴェニスで』。遙か昔にユーゴスラビアより移り住み、今や妻も亡く、日がな仲間と気ままに酒を酌み交わす初老の“詩人”と、故郷に残してきた幼い息子をイタリアに呼び寄せられる日を夢見て、慣れない異国で懸命に働く中国人。人生のクライマックスを迎えつつある者と、未来が待ち受ける大切な存在を守らねばならぬ者との交流は、節度ある純粋さに満ちている反面、繊細で脆い。一期一会のきらめきと切なさが、人肌の温もりが溶け込む美しい映像の中に散りばめられ、プラトニックなメロドラマを、より忘れ難いものにしている。

 今年のアカデミー賞を大いに賑わせつつ、本命の外国語映画賞で受賞した『愛、アムール』。そのあまりにストレートなタイトルに、常に物議を醸してきたオーストリアの異端・ミヒャエル・ハネケ監督の新境地かしらん・・・・・・との妙な心配(?)も、乱暴かつ静謐なオープニングの混沌により即座に払拭され、妙に安堵する自分におののく。長年にわたり、喜びも悲しみも分かち合ってきた老夫婦の、とびっきり素敵な一夜に続く、いつもと少しだけ違う不穏な朝。手術の失敗で車椅子生活を余儀なくされる妻と、彼女を献身的に支える夫との、あまりに過酷で濃密な日々を、堂々と“愛”と銘打つハネケの、自らも老境に差しかかった上での決然たる覚悟に、居ずまいを正さずにはいられなくなる傑作である。

(映画ライター 服部香穂里)

第83回 “走る女、佇む男


 朝ドラのタブーに挑み続ける「純と愛」の中で、歴代最も共感されにくいかもしれないヒロイン・待田純は、“女があきらめたら、世界は終わっちゃうんだよ!”と、叫ぶ。他人に迷惑がられようが、思考するより先に行動して孤軍奮闘を続ける彼女を、静かに支える夫・愛の揺るがぬ愛情が、朝向きとはいえない怒涛の展開の、心の拠りどころとなっている。

 常にケンカ腰でワイルドな、若すぎる未亡人と、精神的なトラブルと闘いつつ、去られた妻への未練を捨てきれない男。今年の映画賞レースを席巻中の『世界にひとつのプレイブック』は、社会からはじき出されるのも、辛うじて踏みとどまるのも、その差は紙一重であり、何よりもかけがえのない出逢いを逃さず掴みきることの困難と大切さを、温かなまなざしで描き出す。自分で自身を追いつめてしまうほどのバカ正直さの陰に、お互いを思いやるナイーヴな優しさを秘めたふたりゆえの、意固地にねじくれた遠回りの恋の駆け引きが、じれったくも心に響き渡る好篇である。

 たまたま拾った財布の大金の使い道にも、自分なりの仁義を通そうとする、いささか古風な男前の女子高生と、茫洋と佇みながら、気づくと周囲を思いのままに操っている美青年。『ももいろそらを』は、既に出尽くした感のあった青春映画のバリエーションに、新たな地平を切り拓くとともに、誰もが通り過ぎてきた“あの頃”特有の漠然とした不安感や心地よさをも、懐かしく思い起こさせる。歯に衣着せぬ毒舌からこぼれ落ちる、いじらしい乙女心や、優しい嘘と残酷な真実の狭間で、密やかにきらめく純粋な愛。色彩すら想像させる繊細なモノクロ映像が、妙に後引くタイトルを、より忘れ難く印象的なものにしている。

 微妙な年代を迎えて、自ら変化の渦に飛び込み、その成果を肌で実感したい女と、それなりに幸せな現在の暮らしに充足している、その恋人。同棲4年目のカップルが立たされる岐路を、ふたりの家族となれる日を、保護施設で心待ちにしている迷い猫の視点から物語る『ザ・フューチャー』は、終始メルヘンチックな空気を漂わせつつも、その本質にあるのは、選択を次々と迫られるモラトリアム人間の危機という、リアルなもの。失われゆく彼女の愛を、突飛な能力で必死につなぎとめようとする彼と、他者に期待するのをやめ、自身の中に生きる意味を見出そうとする彼女たちの“明日”を、神々しいまでの存在感を放つ猫が、おぼろげながらも、まばゆく照らし出す。

 さして目立つわけでもないくせに、学生時代の記憶をたどると、なぜか行き当たってしまう、気になる奴。そんな少々風変わりな青年の半生を、80年代のカルチャーとともに、やわらかいタッチで綴る『横道世之介』。超マイペース&ハイペースに彼のハートを射止めるお嬢様をはじめ、浅からぬ縁で結ばれた人たちは、はかなくも濃密な彼との時間を振り返ると、ついつい笑顔になる。観る者は、正にハマリ役の高良健吾の天真爛漫な色気に、それぞれにとっての“横道くん”の残像を重ねながら、そこはかとない幸福感と、胸締めつけられるような切なさに、否応なく襲われてしまうのだ。

(映画ライター 服部香穂里)

第82回 “なりたい、たりない


 コアな視聴者層以外は置いてきぼりにしたような、TVドラマの劇場版が次々と製作される中、視聴率は伸び悩んだものの、クオリティの高さにより映画化が実現した『映画 鈴木先生』は、その飾り気のないタイトルにも作り手の自信がみなぎり、映画から観てもドラマから見ても、“観てから見るか、見てから観るか”的な面白さに満ちた佳篇である。ちょい加藤清史郎似なツルッと肌の長谷川博己が、一見クール、中身はいけない妄想にとりつかれたタイトルロールの中学教師を好演し、個性溢れる今時の教え子たちのサンドバッグとして、彼らの種々雑多な悩みや問題を、真摯に受け止める。“教育だけが、世界を変えられる”という、夢物語にも聞こえる彼の持論は、たりない自分を見つめつつ、なりたい自分を日々更新し、各自の頭で懸命に考えて発言、行動する生徒らにより、生き生きと実証されている。

 父親としては落第だが、元CIA秘密工作員としての能力は超ウルトラ級で、愛する娘を守るためなら手段を選ばぬあの男が、パワーアップして帰って来た『96時間 リベンジ』。スティーヴン・セガールあたりであれば、笑って許されそうな暴れん坊パパの溺愛ぶりも、演技派・リアム・ニーソンの力演ともなれば、敵対グループが気の毒に思えてくるほどのキメキメで容赦ない仕打ちには、笑いを通り越して狂気すら覚えてしまう。その餌食らの血の気の多いファミリーから恨みを買ってしまう今回は、前作では父親の守るべき対象であった愛娘が、生ける武器(?)として大ハッスル。『OO7 スカイフォール』でも印象的に登場するイスタンブールの繁華街で、父親直伝の荒っぽい運転テクを披露するわ、手榴弾を投げまくるわ、もはや父親の奮起のモチベーションにはなり得ない急成長に、“続篇では、隠し子の存在でも?”などのツッコミも楽しい、期待のシリーズである。

 ある強烈な体験を経て、一生を団地の中だけで生きていく決意をした少年の約20年間を、舞台を団地の外へと移すことなく、周囲の変遷や彼自身の葛藤をも巧みに盛り込みながら、木目細かくドラマティックに描き出す『みなさん、さようなら』。強くなりたいと願い、毎日のトレーニングを欠かさぬ反面、自らの心の傷とは向き合えぬままの彼は、団地から次々と巣立っていく小学校時代の同窓生たちの背中を、淋しく見送り続けるしかない。奇妙なほど未だ根強い人気を誇る「サザエさん」や「ドラえもん」の世界にも自然に溶け込みそうな濱田岳は、居心地のよさと不気味さを併せもつパラレルワールドの住人として、最適な逸材。変化=成長と捉える世の風潮に抗いながら、変わらぬまま失うべきでないものの素晴らしさと、それを頑なに守り通すだけでは生きていけない不条理でシビアな現実を、その稀有な個性により、見事に体現している。

 現代社会が、男女いずれにとって都合がいいのかは容易に判断できないが、女性が生き難かった時代に、生活のために男性として生きる道を選んだ主人公の、滑稽なほど生真面目で、悲しいほど一生懸命な日常を丹念に綴る『アルバート氏の人生』。これまでも、様々な女性たちの光と影を見つめてきたロドリゴ・ガルシア監督は、冷静沈着なホテルのウエイターとしての仮の姿に、人には言えない数多くの秘密と、人並みのささやかな夢や希望を忍ばせた“彼”の半生に、興味本位で深く立ち入ろうとはせずに、危なっかしくも徐々に本来の“彼女”へと覚醒していく様を、距離をおきながら粘り強く見守り続ける。そして、他人の目にはどれほど奇異で惨めに映ろうとも、自分の手で切り拓き、コツコツと地道に歩んできたそのユニークな生涯を、まばゆく照らし出すのである。

(映画ライター 服部香穂里)

第81回 “おかえりっ!


 再会が叶うのであれば、映画の中でも、夢の中ででも、かけてみたい言葉。
あまりにも多くの存在が旅立ってしまった年の瀬に、目一杯の願いを込めて。

 死を望む、見ず知らずの他人の散り際に、半ば強制的に付き合わされる人々の葛藤を描く『カミハテ商店』。自殺の名所に程近く、片道行きを決め込む乗客がまばらに降り立つバス停留所の前で、かなりよく言っても小ぢんまりとした店を細々と営む60歳の女性。最後の晩餐にと、手焼きのコッペパンと牛乳を買い求めに立ち寄る客を引き止めもせず、それでいて、頼まれもしないのに、彼らが断崖に遺した靴を、回収せずにはいられない律義者でもある。そんな人生を半ば放棄したかのような愛想なしのオバハン役に、未だ熟女の美しさを誇る高橋恵子を振るという大胆な“ミスキャスト”が、虚しい一期一会続きの彼女の日常に訪れるささやかな変化を予感させる、静かながらも力強いラストショットに、存分に生かされている。

 今は亡き名匠・ロベール・ブレッソン監督が遺した作品の中で、フランス本国でも、再上映される機会のほとんどなかった『白夜』(71)が、日本では78年の劇場公開以来となる、34年ぶりのニュープリント上映が実現。真剣な恋におちてしまうことを自ら拒絶するかのように、街で理想的な美女を見かけては、かりそめの恋愛を頭に思い描き、ひとりテープレコーダーに吹き込みながら鬱々とした青春を過ごす画家の卵の青年と、一年後の再会を約束して別れた想い人への一途な愛ゆえに、その日が近づくにつれて不安に襲われる女性との、ポンヌフでの運命的な一夜から始まる、まぶしすぎる4日間。撮影当時のパリの未だ色褪せぬ情景の数々は、遅れてしまった世代の憧憬とジェラシーを否応なくかき立て、その中でひっそりと育まれる、じれったい男女の愛の在りようを、より神聖で忘れ難いものへと高めている。

 相容れるはずのない“天寿”と“夭折”とを同時に体現するがごとく、濃密な時間を早足で駆け抜けたあいつが、スクリーンに颯爽と甦る『復活 尾崎豊 YOKOHAMA ARENA 1991.5.20』。92年に26歳の若さで彼がこの世を去った当時、その多分にナイーヴで独特な音楽性ゆえか、30代、40代の尾崎豊像を想像し得なかった自分は、不謹慎と自覚しつつも、大いなる衝撃とともに、妙に腑に落ちた記憶がある。88年以来ステージに立つことのなかった尾崎の、亡くなる前年に行われた最後のライブツアーの初日の模様を収めた本作は、永遠に年をとらない無二のシンガーソングライターが、あの歌、この歌を涙ながらに熱唱する様を通して、がむしゃらであれ無為であれ、これまで生き永らえてきた者それぞれの20年をも生々しく浮き彫りにし、後引く痛みを伴うカタルシスをもたらすのである。

 84年の実写短篇映画を、ティム・バートン自らの手で、モノクロのストップモーション・アニメ&3D映画として復活させた意欲作が『フランケンウィニー』。チープな作りが、グロテスクなホラー・テイストを醸し出していたオリジナル版に対し、気の遠くなるような手作業のアナログ感と、色彩や肌触りさえ表現し得る陰影深いモノクロ映像の美しさを、よりヴィヴィッドに際立てる3Dというデジタルとの幸福な出逢いが、未体験の映像世界を現出させる。その一方で、大好きだった亡き愛犬をもう一度抱きしめたいという、孤独な少年の素朴なひたむきさは、ツギハギだらけに生まれ変わってなお、一層キュートさを増す愛嬌たっぷりのブルテリア犬・スパーキーを通して、長き歳月を経ても、一貫して衰えず脈打つ。初期のきわどい作風にこそシンパシーを覚える身には、近年のエンタテインメント性豊かなティム・バートン作品の中には、物足りなさの残るものもあったが、映画と犬とフリークスへの惜しみない愛に溢れ、『シザーハンズ』(90)、『ティム・バートンのコープスブライド』(05)の流れを汲む本作では、制御できぬ涙腺に難儀した次第である。

(映画ライター 服部香穂里)

第80回 “映画に愛をこめて”


 かの第16代合衆国大統領・エイブラハム・リンカーンが、腕利きのヴァンパイア・ハンターだったら?こんな不謹慎にも思える奇抜な設定を、畳み掛けるパワフルなアクション・シークエンスにより強引にゴリ押しし、痛快なエンタテインメントに仕上げてしまった快作が、『リンカーン/秘密の書』。地味めのキャスティングを敢えて配することで、リンカーンの“表の顔”をリアルに描出する一方、夜の闇に紛れて特注の斧を豪快に振り回し、幼少期より続く因縁深い敵のヴァンパイア軍団を狩りまくる、弁慶をも彷彿とさせる苦み走ったヒーロー像である“裏の顔”を、イマジネーション豊かに創出する。ハチャメチャな物語を労も金も惜しまず撮り上げる、映画作りの美点が、この作品にはある。

 片や、アメリカとイランとの関係がこじれる一方の70年代から80年代を背景に、現代史の中で封印され続けた、にわかには信じ難い珍妙かつ感動的な実話を映画化し、ささやかに主演も兼ねるベン・アフレックが、一縷の隙もない演出手腕を発揮して見せた『アルゴ』。イラン過激派から逃れて、カナダ大使邸に身を潜める6人のアメリカ大使館員を、イラン側に知られず出国させるべく、CIAの脱出作戦のプロが提示したプランは、『アルゴ』なる架空の映画製作をでっち上げ、イランにロケハンに来たカナダ人撮影隊に仕立て上げて逃がしてしまおうという、人を食ったような大胆なもの。映画界の光と影を肌で知るアフレック監督は、その実態を程よく皮肉りつつ、数々のヒット作の要素を寄せ集めた、ありもしないSF映画製作を装うためだけに奔走する活動屋の心意気や、半信半疑ながらも、命懸けで役作りに励む大使館員らに温かな眼差しを注ぎ、社会派ぶらぬ良質な人間ドラマを完成させた。

 誰にでも、秘密はある。知られたくないことには口をつむぎ、そうでない場合は装飾を交えて誇張したりもする、登場人物それぞれの“ミステリー”を、ヨーロッパ中が揺れに揺れていた19世紀前半を舞台に、何重ものトリッキーな映像を張りめぐらした入れ子構造によって物語る、異才・ラウル・ルイス監督最後の作品にして全篇267分の超大作が、『ミステリーズ 運命のリスボン』。映画による一人称表現の穴を逆手にとり、世界を驚愕させた『ユージュアル・サスペクツ』(95)よろしく、複雑な生い立ちに翻弄される孤児を表向きの主人公に据えつつも、“我が人生の主人公は自分なり”とでも言いたげな、自己主張激しい曲者揃いの人物らの饒舌さが、判明しかけた謎を一層深まらせ、過去と現在を流麗に彷徨する贅沢な時間の流れの中で、観る者を心地よい混乱へと陥らせ続けるのである。

 華奢な外見とは裏腹に、シビアな映画界において、半世紀近くにわたりコンスタントに作品を発表し続ける、ウディ・アレンなるタフな才人の軌跡を、様々な角度から追いかける貴重なドキュメンタリーが、『映画と恋とウディ・アレン』。触れられたくないであろう過去にも目配せしながら、絶賛された『マンハッタン』(79)に対する意外な自己評価の低さや、かけがえのないミューズであったダイアン・キートンやミア・ファローらへの想いなどを率直に語る姿からは、慢心することなく一歩一歩進んできた稀代のストーリーテラーの人知れぬ苦悩や、常に先を見据える映画監督としての貪欲さが浮かぶ。そのフィルモグラフィーを改めて観直し、長寿の家系であるという彼の未だ観ぬ新作を一本でも多く観たくなってしまう、ウディのみならず、映画そのものに向けた作り手の敬意が、全篇から溢れる好篇である。

(映画ライター 服部香穂里)

第79回 “奇婦人たち


 今や懐かしい響きの“文豪”の遺した6つの短篇を、次代の日本映画界を担う気鋭たちが、ある者は大胆に、ある者はオーソドックスに映像化し、《見つめられる淑女たち》《告白する紳士たち》と3篇ずつに分けて公開中の、『BUNGO〜ささやかな欲望〜』。様々な制約を逆手に、それぞれの作家性が花開く意欲作が並ぶが、前者のみならず後者も、登場する女性陣の魔力が、男性陣を虜にする。彼女らが“淑女”であるかはさておき、女の神秘性こそが、昭和の文豪ならびに若き映像作家にとっても創作の源であることを、6者6様に物語っている。

 南北戦争終結の祝賀ムードの最中に起きた、リンカーン大統領暗殺事件に加担した罪に問われ、アメリカで初めて死刑になった女性の秘めたる実話に、かのロバート・レッドフォードが光を当てる『声をかくす人』。これまでも、はかなげで薄幸な色香を漂わせ、異性を惹きつけずにはおかない役柄を数多く演じてきたロビン・ライトが、実生活では役者バカ(失礼!)の元亭主の呪縛から解き放たれた今回、完全不利な裁判にも自分が無実であること以外は黙して語らず、頼りなげな息子を守るオカン役で、重量感の増した静かな力演を披露。あらかじめ悲劇的結末が定められた難しい題材ではあるが、彼女の声なき真意を代弁すべく、孤独な闘いを続ける新米弁護士・ジェームズ・マカヴォイとの、付きも離れもせず、それでいて互いを信頼し合う微妙な関係が、死してなお亡霊のように全篇を支配するリンカーンの残像と相まって、物語をスリリングに牽引する。

 どこかお高くとまった文芸調の作風が、好みの分かれるジェームズ・アイヴォリー監督であるが、半世紀近くにわたるパートナーだったプロデューサーのイスマイル・マーチャントを05年に亡くし、自身も老境にどっぷりと浸ることで、80歳過ぎにして新たな境地を開く異色作が、『最終目的地』(09)。自殺した“華麗なる一発屋”の作家の伝記の執筆を志す若き教員が、ウルグアイにぽつんと佇む寂れかけの屋敷を訪ねることで、そこに未だ留まり続けるワケありの遺族たちの間に、幾重にも波紋が広がっていくが、とりわけ強烈なのが、ただひとり頑なに申し出を拒絶する作家の未亡人にふんするローラ・リニー。もはや悪あがきと知りつつも、高慢にも見える美意識を貫かんとする男前なマダムを、熟女オーラむんむんに力演し、ラース・フォン・トリアーと出逢って演技派へと大化けする直前のシャルロット・ゲンズブールがキュートに演じる作家の愛人と、絶妙のコントラストをなす。

 一度きりの人生なのだから、恥も外聞もかなぐり捨て、自らの欲望に忠実に生きてみたい。そんな身勝手だが真っ当な願望を、独特のスタイルで映像化してきたホン・サンス監督の真骨頂が、カンヌ国際映画祭ある視点部門グランプリに輝いた『ハハハ』。同じ土地を旅してきたばかりの映画監督とその先輩は、酒を酌み交わしながら、旅先で遭遇した女にまつわる思い出話に花を咲かせるが、彼女らは、彼らの知らないところですれ違い、関わり合い、カップルの成立や破局に、少なからぬ影響を及ぼしていた。『オアシス』(02)、『浮気な家族』(03)などの問題作で、全身全霊の演技が高く評価されてきたムン・ソリであるが、ホン・サンス監督と初タッグとなる本作では、すっとぼけた名コメディエンヌとしての才能を発揮し、いい加減な男に一方的に好意を寄せられるうちに、気持ちが揺れに揺れてしまうヒロインを快演し、男にとっては永遠の謎である女たるものを、チャーミングに体現する。

 『月とチェリー』(04)、『俺たちに明日はないッス』(08)など、観る側の甘ずっぱ苦い記憶をも呼び覚ますほど、自らの生理に真摯に向き合う作品を撮り続けるタナダユキ監督の新たな傑作が、『ふがいない僕は空を見た』。生と性が日常的に交錯する異様な環境のもと、助産婦の母親に女手ひとつで育てられた高校生の青年と、ややこしい家庭の問題からアニメキャラクターのコスプレへと逃避する主婦との、一見いびつだが純粋そのもののメロドラマに、親の愛に飢えながら極貧生活を必死にサヴァイヴする青年の同級生らが、毒気を含むスパイスを利かせる。一筋縄ではいかないヒロイン役に体当たりで挑むのが、『お引越し』(92)以来、その歩みを見守り続けてきた田畑智子だけに、タナダ監督の繊細さが光る美しいラブシーンであれ、まるで身内の極私的なプライバシーを覗き見されるがごとき後ろめたい錯覚に襲われるが、そんなやるせなさこそが、不格好な人生でも死ぬまで生き続けるより仕方ないという、控え目な人生賛歌としての本作に、ユニークな輝きを与えている。

(映画ライター 服部香穂里)

第78回 “傷つけずにいられない


 愛と死の、いわく言い難い感触を、映画として昇華させてきたフィリップ・ガレル監督が、集大成的な傑作『恋人たちの失われた革命』(05)に続き、男女両方から言い寄られそうな甘いマスクの息子・ルイに、自己を投影して撮り上げた『愛の残像』(08)。現在のパリが舞台であるものの、名だたる監督たちの共犯者としてヌーヴェルヴァーグを牽引した名カメラマンの故・ウィリアム・ルプシャンスキーによる美しいモノクロ映像が、古きよき時代のフランス映画のデカダンな息吹を、現代に甦らせる。演じることが日常ゆえに、永遠の愛なんて信じちゃいない現実主義者の女優と、はかない一瞬をファインダー越しにつなぎ止め、愛なしには生きていけないロマンチストの写真家。本質的に水と油な男女の恋愛は、狂おしいほどに傷つけ合いながら、精神のバランスを失った彼女の自殺により、突然に幕を降ろす。父親・ジョニー・アリディ譲りの強烈な眼力をもつローラ・スメットが、死してもなお彼の心を支配し続けるファム・ファタールを力演し、究極の愛の崇高さと、その代償の残酷さをも、妖艶に体現している。

 日本国内でも、2度TVドラマ化されてきた乃南アサの直木賞受賞作が、近くて遠いお隣りさんの韓国において、待望の映画化が実現した『凍える牙』。頻発する謎の殺人事件が、ある悲しい復讐心でつながる傑作小説ゆえに、発表されてから十数年を経て、この手の題材に滅法強い韓国で映画化されるのも、ごく自然の流れのようにも思われる。エネルギッシュな意欲作を世に放ってきたイ・ハ監督は、自身初となる女性を主人公に据えた本作でも、男社会でなかなか居場所を見出せない女刑事のアウトロー性に重点を置き、大好きな飼い主が定めた標的を次々と噛み殺す特命を胸に夜道を疾走するしかないオオカミ犬と、その孤高な姿に自身を重ね、自慢のオートバイで追走する刑事との魂の交感を、心揺さぶるチェイスシーンとして結実させる。一見無愛想な表情の下に、強さと脆さ、光と翳りといった二面性を秘めた難役に臨むイ・ナヨンのひたむきさと、昔気質のベテラン刑事にふんするソン・ガンホの軽妙さが相乗効果を生み、バディ・ムービーとしてもユニークな仕上がりとなっている。

 外部との接触を絶ち、周囲を高い塀で囲まれた邸宅内で、3人の子どもを育てる一家の奇妙な暮らしと、その基盤となる微妙な秩序のようなものが崩れていく顛末を、ギリシャの新鋭・ヨルゴス・ランティモス監督が、透徹した眼差しで洞察する『籠の中の乙女』。“子ども”とはいえ、ティーンエイジャーにも見えない長女、次女、長男が、年齢相応に膨れ上がる妄想や好奇を、幼稚で残虐な暴力や悪戯にぶつける様は、理性という殻に覆われた本能をむき出しにする、ヒトのようでもある。愛する我が子を守るべく、外界への恐怖心を植えつけ、嘘を重ねてでも歪んだユートピアの維持に固執する父親の奮闘は、涙ぐましいほど滑稽で、子どもたちの外見と中身との痛々しいアンバランスさも相まって、グロテスクなユーモアさえ生む。原題の“犬歯”の意味が、はらわたの芯から突き上げるように利いてくるクライマックスの衝撃は、子離れできない親と、親離れできない子どもとの、相互を憎みつつも依存せずにはいられない親子間の特殊で濃密な愛に彩られ、絶望的なまでに痛切な余韻を残す。

 最近は、NHKの震災復興ソングの作詞やPVも手掛けるなど、幅広く活躍する岩井俊二が、憧れの名匠の創作を公私にわたり支えた脚本家・和田夏十にも心からのオマージュを捧げた『市川崑物語』(06)などを挟み、『花とアリス』(04)以来の長篇劇映画を、全篇英語で完成させた『ヴァンパイア』。タイトルずばり、他者の血を求めてさまよう青年が主人公ではあるが、人体の仕組みに精通する生物学教師でもある彼は、宿命的な罪悪感から逃れるべく、“死にたい病”に囚われた異性ばかりを狙い、その身体から抜き取った血を頂戴するうちに、真の愛を発見する。これまでの岩井作品に度々登場してきた狂信的な母親とは一味違い、悩める怪物を産み落とした病身の母親(アマンダ・プラマー、快演)は、浮遊感たっぷりの拘束衣を身にまとい、自ら罪を暴露したがっているがごとくガードの甘い息子を、室内から静かに見守っている。シュールさ際立つ輸血する吸血鬼が、他の生命を奪いつつ他のために生きたいと願う人間の自己矛盾の比喩と思い到る時、英語や吸血鬼というひねった仕掛けを用いた本作が、岩井が初めて挑んだ正統派メロドラマであったことに気づくのである。

(映画ライター 服部香穂里)

第77回 “不在感”


 この仕事を始めた頃、既に“ヤツ”は家にいた。いわゆる忠犬からは縁遠く、こちらの都合などお構いなしに、つぶらな瞳で一途に愛を乞うたかと思えば、暴君のごとく乱暴に振舞ったりもするが、そんな気ままな二面性すら憎めずに許せてしまう、腹が立つほどいとおしいワン公であった。
 梅雨が明けると間もなく、ヤツは逝った。その呆気ないほどの潔さ、マイペースさも、あまりに“らしい”最期ゆえ、その不在に未だ慣れることができずにいるが、それこそヤツの思うツボで、自分の今後の余生をも、ばかデカい存在感で、ずーっと支配し続けるに違いない。とりあえず、バイバイ。また逢う日まで。

 先頃、平成生まれの直木賞候補としても話題を集めた朝井リョウの処女小説を、鬼才・吉田大八監督が、大人の目線で流麗かつ楽しげに映像化した『桐島、部活やめるってよ』。休日前の金曜日、文武両道で名を馳せる桐島が、主将を務めるバレーボール部を辞めるとの話が、高校内を駆けめぐる。身内であるはずの恋人や親友らは、近くにいながら何ひとつ事情を知らされていないことに動揺を隠せぬまま、連絡を絶った桐島探しに奔走する一方、“そんなの関係ねえ!”とばかりに人気者グループと距離をおく面々も、理想と現実とのギャップをしみじみと噛みしめつつ、悶々とした日々を過ごしている。吉田監督は、実体がないゆえに好奇心を一層かき立てる桐島なる切り札をキープした上で、彼を取り巻く者たちの劣等感や根拠のない自信、虚栄心やブサイクな失恋の痛みへと関心を移行させつつ、無意味だが歴然と存在する校内ヒエラルキーを、驚愕の力技で覆してみせるのである。

 映画には適切な尺があるという、映画作りの基本を無視した作品が、後を絶たない今日この頃。そういう意味では、全4部構成、トータル399分にも及ぶ『ジョルダーニ家の人々』は、その長尺から想像される重厚さやスケール感には背を向け、ローマで暮らす中産階級の一家の営みを通して、世界の“現在”を覗き見んとする、パッケージは地味だが志は高い意欲作だ。ジョルダーニ家にとって太陽のような存在であった末っ子の突然の事故死を機に、幸せで満たされていたはずの一家が内包していた、様々な問題が表面化する。父の不倫、母の自殺未遂、初めて心から愛せる男性に出逢えた長男、父同様に不倫の深みにはまる次男、患者に好意が芽生えるカウンセラーの長女、イラクからの難民母娘との交流など、言葉にすると多分にドロドロした欲張りな展開ながら、贅沢に流れる時間とともに、丹念に紡がれる挿話が重なり合い、熟成する中で、多くの愛に支えられながら、喪失感を乗り越える者たちの姿が、情感豊かに描き出されている。

 家族のかたちがどれだけ多様化しても、子どもにとって、いつもそばにいて、見守り続けてくれる人の存在が、どれほど大切であるか。それは、親きょうだいといった血のつながりとは別のところに見出せる場合もあることを、つつましく示唆するドキュメンタリーの佳篇が『(とな)る人』。舞台となるのは、親と暮らすことの叶わない子どもたちが、それぞれの欠落と葛藤しながら、ともに生活する児童養護施設。見られることに人一倍敏感な彼女たちは、本作が初監督となる刀川和也監督のちょっとした気の迷いも見透かすかのように、レンズを睨みつけて“ヘンタイ!”と暴言をぶつけたりもする。しかし、8年もの撮影時間を費やす中で、両者を隔てる違和感が消え、打ち解けた保育士さんにだけ見せる、抑制の利かないむきだしの感情や、心底安らいだ笑みもが、カメラに収められていく。それは、かけがえのない関係性で結ばれた子どもと保育士さんとの揺るがぬ愛の結晶であると同時に、その一部始終に空気のように寄り添い続けた刀川監督が、変なおっさんから、彼女らの“隣る人”としての資格を得るまでの、汗と涙の記録でもあるのだ。

(映画ライター 服部香穂里)

第76回 “やぶれかぶれに”


 死ぬ気になれば、何だってできる。37歳で初優勝を飾る力士、卑劣極まりない凶行に走る者・・・・・・。虚しさを抱えつつ、自問自答は続く。

 出演作が相次ぐサム・ワーシントンが、そのものズバリのタイトルロールを身体を張って熱演する『崖っぷちの男』。高級ホテルの見晴らしのいい21階の部屋で、柄に合わないルームサービスの朝食を粛々と食べ終えると、遺書めいた書置きを残し、おもむろに窓外の細い縁に降り立つ男。しかし、自殺志願者らしき彼には他に思惑があり、自ら交渉役に指名した自信喪失気味の女刑事を味方につける一方、適度なお色気とユーモアを挿み、二転、三転するスリリングなドラマが同時進行する。無実の罪で収監されたまま一生を終えるなら、好奇の視線が注がれる地上60メートルで、道化だって演じてやる。狡猾な横領罪とは縁遠そうな体育会系のワーシントンが、実は高所恐怖症という自身の弱点を武器に、ズタボロの脱獄囚役でいつになく迫真の演技を見せ、張りつめた緊張から一気に解放されるエンディングに、さらなる爽快感を与えている。

 酒と薬物に溺れるダメダメな男たちの破天荒だがまぶしい日々と、正気を失っても譲れぬ純粋なジャーナリスト魂を、意外なほどストレートに描ききる愛すべき作品が『ラム・ダイアリー』。期せず手に入れていたハリウッド・スターとしての地位に安住せぬように、敢えてクセのある役どころを好んで演じてきたようにも映るジョニー・デップが、実生活でも親交のあった鬼才・ハンター・S・トンプソンの人気ライターとしての自己を確立する前の宙ぶらりんの時代を、珍妙なヅラに目が釘付けのリチャード・ジェンキンスら個性溢れるオッサン連中に囲まれながら、歳を感じさせぬ初々しさで、ナチュラルに好演する。書かせてもらえるものと書きたいものとの狭間で葛藤し、ハチャメチャな仲間とバカをやりつつ信念を貫こうとする主人公の青くさい姿は、死語にも思われる“ジャーナリズム”なる言葉の本質を率直に体現し、感動すら覚えてしまう。

 近年、お騒がせ俳優の烙印を押されつつあるメル・ギブソンだが、そんな負の実体験も肥やしに、役者としては充実期にあることを証明した佳篇が『それでも、愛してる』。未だ病気として認知され難いうつ病を患う男は、自殺に失敗した夜、愛嬌たっぷりのビーバーのパペットを片手にはめた瞬間、歯に衣着せぬ物言いで次々とアイディアを実現する、理想的な別人格を得る。様々な声色で悩める中年男とビーバーの二役を務め上げるメルの鬼気迫る熱演を引き出したのは、彼の親友であり、本作の監督&妻役で出演もしているジョディ・フォスター。人形を拠り所に快方に向かうかに思われた病める男がとった苦渋の行動は、賛否両論あるだろうが、メルにとってのジョディのように、見放さぬ理解者がいれば、どうにか生きていけることを示唆する。ペットブームの背景にも、こんな淋しい現代人の事情が潜む気がして、宅の愚犬が、一層いとおしく思われた。

 宮澤賢治×杉井ギサブロー×ますむらひろしによる傑作アニメーション『銀河鉄道の夜』(85)の成功よ再び・・・・・・と、手塚プロダクションもパートナーに加えて、四半世紀余の年月を経て製作された力作が『グスコーブドリの伝記』。物欲、性欲、自己顕示欲といった個人的な欲望を封印し、世のために役立つ公的な存在として献身しようと努めた賢治の分身のようにも見える本作の主人公・ブドリは、異常気象がもたらした飢饉による一家離散という不幸を体験した上で、ある決断に到る。あの震災後、多くの人たちが、自分が自分であることの意義への問いかけを繰り返しているであろう今、決死の覚悟でロボットとしての生涯を全うしようとした鉄腕アトムとも重なるブドリの選択は、悲痛なまでの実感とともに、胸に迫ってくる。

 どれだけ努力しても母親には向かない根っからの自由人と、そんな彼女の本質を物心ついた頃から鋭く見抜いていた息子との、一向に噛み合うことなく愛がすれ違っていく尋常ならざる日々を、独特の美的センスで綴る傑作『少年は残酷な弓を射る』。映画は、ある途方もない事象の責任をひとりで背負い続ける落第した母親(ティルダ・スウィントン、神々しいまでの妙演)の悪夢のような現在と、歪んだ愛情を反抗的な態度でしか表現できない息子とのシュールな過去とを行きつ戻りつしながら、母子が正面から対峙するクライマックスへと到る。すべてを失い、ふたりきりになった母親と息子が、言葉少なにではあるが、初めて心通わせ合う訥々としたやり取りが、互いを縛ってきた長年の確執をゆるやかにほぐし、地獄へと一直線に続くかに見えた茨の道に、一抹の光が射し込むのである。

(映画ライター 服部香穂里)

第75回 “脱・ポーカーフェイス”


 頭でっかちな苦心の作の邦題とは裏腹に(原題は“Last Night”)、理屈では割り切れぬ愛に迷う男女のどうしようもない生態を観察する『恋と愛の測り方』。夫の浮気を疑い、かつての恋人との突然の再会に心ときめかせる人妻役のキーラ・ナイトレイは、元彼との久々のデートに未練バレバレな気合い満々のドレスで臨むも、一線を越えぬまま一夜をやり過ごす複雑な女心を、表情豊かに妙演する。片や、出世作の『アバター』(09)以降、肉体派の役柄が続くサム・ワーシントンは、妻を大切に思いながらもセクシーな同僚の魔力に屈する優柔不断な亭主を、呆け気味の(失礼!)ポーカーフェイスで演じ通す。そんなふたりのコントラストが、心と身体のバランスが根本的に異なる男女間の亀裂や、永遠に平行線をたどらざるを得ない不条理な愛の真実をもさらりと示唆し、ありがちな一夜の痴話に、妙に後引く余韻をもたらすのである。

 ぬいぐるみチックな(?)独特の風貌を武器に、役柄的には“受け”の場合であれ、さりげない“攻め”の芝居で共演者を食うことも多々ある、若き個性派・濱田岳が、他人の不幸を見逃すことのできないお人好しの空き巣役で、相性抜群の中村義洋監督×伊坂幸太郎原作ものに再度主演する『ポテチ』。震災後の仙台でロケを敢行した本作では、同じ日に同じ病院で生まれたプロ野球選手に過剰なまでに肩入れし、のんびりした外見に似合わず厄介な葛藤を秘める心優しき主人公に、作り手たちの様々な思いが託される。そんなプレッシャーも原動力に、いつにも増して表情筋をフル稼動させる濱田の、ユーモアとペーソスが絶妙に溶け合う伸びやかな好演を通して、引き返せない運命の痛みと、それでも現実を受け入れて前進することの尊さが、いとおしい68分全篇に凝縮されている。

 『トワイライト』シリーズでは、悩める青白きヴァンパイア・ロバート・パティンソンの物分かりのよすぎる恋敵役で、好アシストを見せるテイラー・ロートナーが、自らの出自をド派手に探求していく青年役で初主演を務め、新たな魅力を発揮する『ミッシングID』。ロブとのバランスや、事あるごとに狼に変身してしまう特殊な役柄上、その勇姿を拝める時間が限られる同シリーズに欲求不満なファンにとっては垂涎ものの1本であると同時に、シガーニー・ウィーヴァーやマリア・ベロらベテラン女優陣の、笑えるほどに本気モードの力演に負けじと、幼い頃から鍛え上げてきたロートナーの身体能力の高さを存分に生かした、アクション映画の快作でもある。『ボーン・アイデンティティー』(02)のようにスケールを広げることなく、あくまで“家族”を主題に据えたことで青春映画のテイストも加わり、次代を担うアクション・スターの現在を、生き生きと切り取っている。

 『ワンダフルライフ』(99)を皮切りに、どこか浮世離れした佇まいで、映画界に新風を送り込んだARATAであるが、『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(07)での若松孝二監督との出逢いは、それまで築き上げてきた俳優やモデルとしての涼しげな彼のイメージをはぎ取り、熱い血の通ったひとりの人間としての自身と対峙させる、大きな転機となったようだ。若松監督と4度目のタッグとなる『11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち』では、脆さや自己矛盾も含めた三島由紀夫の人となりを真摯に演じ、とりあえず信条などには目をつぶり、ただ日本という国の行く末を憂う気持ち一点のみで三島に歩み寄ろうとする若松監督のヴィジョンのユニークさを、一層際立たせている。空転する言葉の無力さを痛感し、理想を具現化する“行動”に価値を見出すも、その時機すら逸して自決へと駆り立てられていく昭和のカリスマの苦悩に肉迫し、本名の井浦新としての門出を、力強く宣言した。

(映画ライター 服部香穂里)

第74回 “終末が待ち遠しい!”


 NHK朝の連続TV小説「カーネーション」が、エンディングを迎えた。尾野真千子から夏木マリへのヒロイン交代劇が奏功したとは思えなかったが、中村優子、あめくみちこら実力派をピンポイントで配して残り1ヶ月を乗りきった末の最終回、力技の感涙のラストシーンに続いて、エンドクレジットのトリを尾野が飾ったところに、彼女への製作陣の精一杯の敬意が感じられた。“あらゆるものすべて、終わりがあるからこそ美しい”という、渡辺あや独特の哲学が貫かれた台詞ひとつひとつに、大いに泣き笑いさせられた、幸福な半年間であった。

 かの『タイタニック』(97)を、3Dにて再見。世紀末の不穏な空気にまみれ、お先真っ暗だった自分の人生を沈みゆくタイタニック号の運命にダブらせながら観た、公開当時の苦い記憶が一瞬脳裏をよぎったが、数々の問題を積み残したまま21世紀を迎えて早や10年以上過ぎた今、あの頃とは違った感慨に浸りつつ、いつの間にやら2D、3Dなどどうでもよくなり没入していた。未だ60歳の夏木と比較するのも酷だが、102歳のローズを演じるグロリア・スチュアート(2010年に100歳で逝去)が素晴らしく、シワくちゃお肌に恋する乙女の瞳を輝かせ、長い人生の中で悲痛ながらも一番まぶしかった一日に想いを馳せる老婦人役に、生き生きと説得力を与えている。さらに、身銭を切ってまで一大プロジェクトを実現させ、徹底したリサーチすべてを画面の隅々に注ぎ込んだ、ジェームズ・キャメロン監督の並々ならぬ執念。圧倒的な映像表現の精緻さに比して、人物造形のシンプルさが批判されたりもしたが、15年の時を経て、そんな欠点すらも愛しさに変え、時代を超える金字塔的作品として、堂々と甦ったのである。

 にわかには信じ難い事象が次々と起こる度に、不謹慎な言い方かもしれないが、悪夢として繰り返し見てきたような既視感を覚えてしまう身にとっては、あまりに生々しい怪作が『テイク・シェルター』。『BUG/バグ』(07)、『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』(08)などで、パラノイア的人物の内面に肉迫してきたマイケル・シャノンが、精神病を患う母親同様に発病する危機感におびえつつ、聴覚障害のハンディをもつ一人娘と愛する妻を守らねばならぬという異様なまでの使命感に駆られ、追いつめられていく一家の主を力演する。“備えあれば憂いなし”など迷信に過ぎぬとばかりに、この世の果てのような鮮烈なイメージに連日連夜悩まされる主人公は、迫りくるはずの大災害に備えてシェルター作りに没頭するが、次第に周囲から孤立していく。正気とも狂気ともつかぬ夫を必死に支えようとする妻(注目のジェシカ・チャステイン、好演)がラストに見せる、いわく言い難い表情には、家族愛の強さと脆さが覗き、漠然とした不安を抱えて生きねばならぬ人々に、痛切な余韻をもたらす。

 29歳の若さで戦病死した山中貞雄監督は、結果的に遺作となってしまった『人情紙風船』(37)を、“これが遺作ではチトサビシイ”と評したそうだが、脂ののった現役バリバリであるハンガリーの鬼才・タル・ベーラは、ベルリン国際映画祭で銀熊賞と国際批評家連盟賞をW受賞した2時間34分の力篇『ニーチェの馬』を、最後の作品と位置づけた。謎の暴風が吹きすさび、家から目と鼻の先にある井戸の水を汲む作業すら困難を極める日々で、右手の利かない農夫と、寡黙だが働き者の娘は、ゴッホの《馬鈴薯を食べる人々》がごとく、ランプがささやかに灯る暗がりの中で、ただ生きるためだけに、味気ないふかし芋を黙々と食べる。そんな飼い主父娘を横目に、自らの意志で生きることに背を向け、安楽死ならぬ尊厳死を選ぼうとする馬は、ある時代が確実に終わりを告げつつある現在の映画界での創作活動に早々にピリオドを打つ、監督自身の姿とも重なって見える。ただ普通に生活することの厳しさと、それゆえの崇高さを、透徹したまなざしで見つめ続ける本作は、来る映画新世紀へ静かに警鐘を鳴らすとともに、それでも変わらぬままであり続ける、あり続けて欲しい、映画本来のもつ底力への、切なる信頼感に満ち溢れている。

(映画ライター 服部香穂里)

第73回 “破壊指数”


 森達也ら4人の映画人が、東日本大震災から2週間後の被災地に踏み入り、十分な準備もないままカメラを闇雲に廻した『311』に、何ともいえない居心地の悪さを感じてしまうのは、果たしてこれが映画たり得ているのかという疑問以前に、むき出しの感情を淡々と露にする被災者の人たちを前に呆然と立ち尽くすしかない作り手の姿が、ともに“がんばろう!”と張り切ってきたつもりの観客の自尊心を無残に打ち砕き、結局は安全な位置から無責任にエールを送る傍観者にすぎないということを自覚させるからだ。そういう意味では、生々しい現実を直視させる本作を観て、不快感を改めて覚えることは、ある種の禊といえるかもしれない。

 多彩な役柄を飄々と演じてのける実力派・ライアン・ゴズリングが、かのクリント・イーストウッドが演じてきたガンマンを彷彿とさせたりもする孤高のアウトローを巧演した『ドライヴ』。超人的な運転技術で黙々と“仕事”をこなすものの、本名も過去も一切明かされない謎のドライバーが、同じアパートに幼い息子とともに住まう若い人妻に好意を抱いたことから、彼のストイックな日常が急転していく。恋心ゆえに、秘めたる暴力性が覚醒するバイオレンス・シーンは、屈強なイーストウッドとは対照的なゴズリングの華奢な肉体を通すことで、より強い衝撃度と愛の純粋さを放つ。命と引き換えにしてでも一刻のスピードを競い合う“ドライバーズ・ハイ”に、抑えきれぬ恋愛衝動をスリリングに絡めた、一味違うメロドラマである。

 浮き沈みの激しい映画人生を漂う鬼才・豊田利晃監督が、『青い春』(01)以降、度々組んできた瑛太を主演に、大きな転換期を迎えている映画界の波に抗うかのように、自身の信じる“映画”なるものを不器用なほど真っすぐに探求した力篇が、『モンスターズクラブ』。家族を次々と亡くした後、ひとり雪深い山小屋に引きこもり、誰の目も届かない環境でありながら、きちんとヒゲを剃り、髪や身支度を整え自炊する、折り目正しい生活を送る主人公にとって、社会システムを根幹から崩壊させるべく大企業に爆弾を送る行為は、切り捨てたくても捨てきれない世界とつながりたいと願う、ひねくれた切望の表れでもある。死んだはずの兄弟の亡霊に背中を押され、ある決断をする爆弾魔の敗者の美学に、時代は変わっても、撮り続けることで答えを出していこうとする豊田監督の気概が覗く。

 “恥をかく=生きる”と痛感している身には、『SHAME シェイム』なるストレートなタイトルだけでノックアウトされてしまう、文句なしの傑作。冷静沈着に仕事をこなし、高級マンションで優雅なひとり暮らしを満喫する独身貴族。しかしその実態は、相手を取っ替え引っ換え、うつろな目で、夜ごと愛の伴わない性行為にふける破滅的な日常を過ごす、何らかの重大な欠陥を抱える男である。正確なリズムを刻むバッハの調べが、平静を保とうとする彼の苦悶を静かに代弁するも、病的ながらも秩序立っていた生活に、唯一の肉親である奔放な妹が転がり込むことで、周到に幾重にも覆われていたはずの仮面が、一枚ずつはぎ取られていく。自らを徹底的に傷つけた末に、その恥部と向き合うに到った彼の目に映る世界の変貌ぶりを、瞬時かつ冷酷に描き出す強烈なラストシーンに、セレブな名をもつ新鋭・スティーヴ・マックィーン監督の卓抜した手腕が、存分に発揮されている。

(映画ライター 服部香穂里)

第72回 “ブルー選手権”


 長く携わってきた仕事が一段落つき、脱力、放心状態。そんな心の空洞に忍び込み、痛気持ちよくさせてくれる、ブルーな人々集まれ……の巻。

 『ゴーストライターホテル』は、タイトルこそダジャレまじりでふざけているが、常に困った風の阿部力の個性を最大限に生かした、愛すべき小品。芸人らが勝手気ままに演じる名だたる文豪の亡霊やら、コメディ演技も意外にイケる栗山千明ふんする金遣いの荒い妻たちに押しまくられながら、小説家になる夢を必死に追い求めようとする主人公に、受難顔の阿部が見事にはまり、時に役から逸脱するお笑い軍団の小ネタにも律義に対応しつつ、作品の主題でもある、ひとつのことをやり通す困難と素晴らしさを、さわやかに体現している。

 『JUNO/ジュノ』(07)のジェイソン・ライトマン監督と脚本のディアブロ・コディ女史が再びタッグを組み、ジュノを超える破壊的なキャラクターを生み落とした快作が『ヤング≒アダルト』。ヒロインは、華々しき高校時代の栄光を今なお引きずり、よからぬ企みを実行に移そうとする37歳のシングル。赤ん坊が誕生したばかりの元彼の家庭をかき乱そうとすればするほど、ドツボにはまる彼女(シャーリーズ・セロン、巧演)に救いの手を差し伸べるのは、身も心もズタボロに傷ついた、同級生の毒舌野郎。故郷を捨てた自意識も上昇志向も過剰な女と、憎いはずの故郷から一歩も出られずにいる男という、前代未聞のカップリングによるメロドラマの、ロマンティックでないがゆえに後を引く余韻に、若き黄金コンビのドライかつ鋭い感受性が大いに光る。

 松田翔太が、『ハードロマンチッカー』(11)での不良感度抜群の二枚目ぶりとは打って変わり、アフロヘアーのモテない君を飄々と好演する『アフロ田中』。身のほどを知りすぎるがために、しょうもないことまで悩みまくる律義な性分が災いし、恋にも不器用なバンカラ青年の悶々とした胸中を、たとえば『ボーイズ・オン・ザ・ラン』(09)のように痛切なまでにえぐるでもなく、『モテキ』(11)のように案外重たい女側の事情にも配慮するでもなく、程よくいたわり優しくいじくり回す作り手たちのスタンスにより、この手の作品には珍しく風通しのいい、ゆる可愛い作品に仕上がっていた。

 謎の惑星が地球に接近しつつある中、結婚式の当日になっても心ここにあらずのナーヴァスな花嫁をキルスティン・ダンストが妙演し、カンヌ国際映画祭で主演女優賞に輝いた『メランコリア』は、エセ・フェミニスト(?)のラース・フォン・トリアー監督らしからず、うつ病を患う彼自身の姿を重ねたというヒロインの揺れる心情にデリケートに寄り添った、極めて美しい異色作。裕福な夫と可愛い息子に恵まれた姉は、守るべきもの=失うものの大きさに耐え切れず、忍び寄る異常事態に恐怖の色を隠せないが、結婚もキャリアも自らの手で台無しにしてしまった妹は、地球最大の危機を前に、高揚感すら覚えていく。喜びも悲しみも分かち合ってきた愛憎相半ばする濃密な関係で縛られた姉妹が、手を握って迎える衝撃のクライマックスは、生への執着と死への誘惑が激しく交錯し合い、えも言われぬカタルシスをもたらしている。

(映画ライター 服部香穂里)

第71回 “映画は続くよ、どこまでも”


 昨年11月の東京フィルメックスで、没後10年を迎えた相米慎二監督特集に通っていたのも束の間、年末に突然飛び込んできた森田芳光監督の訃報。作風こそ違えど、同時期にデビューし、日本の映画界を牽引したふたりの鬼才が、既にこの世にいないなんて、映画の神を呪いたくもなるが、命を擦り減らして撮り続けた彼らの作品群は、“映画を観た”という実感や映画的記憶とともに、これからも生きていく。

 そんな重い気持ちを抱えつつ、趣は様々であるが、後々まで“引きずる”パンチの利いた作品たちで、今年一年を始めてみたいと思う。

 ドキュメンタリーの世界で数々の賞に輝いてきたワン・ビン監督が、満を持して長篇劇映画デビューを飾った『無言歌』。1960年、反革命分子として収容所で過酷な労働を強いられた者の多くが命を失ったという、封印されてきた中国の苦い過去を掘り起こす。悲惨さを強調することなく、敢えてモノクロかと見まがうばかりに均一で淡々としたトーンを採用したことで、厳しい気候や壮絶な飢餓状態のために、死すらも日常であった当時の状況が、不気味なほど静かにあぶり出される。そんな長い沈黙を、遠路はるばる夫を訪ねてきた妻の悲痛な嗚咽が破り、カメラが当たり前のように映し出してきた収容所の異常性を一瞬際立たせるが、それすらも、風が吹き荒れるだだっ広い砂漠地帯では、無残にかき消されてしまう。こうして忘れ去られてきた幾多の尊い命を、ささやかながらもスクリーンに甦らせるべく、ワン・ビン監督は、住み慣れたドキュメンタリーの地平から、羽ばたいてみせたのかもしれない。

 旧ソ連のグルジアに生まれ、後に拠点をパリに移し、現在まで国際的賞賛を浴び続ける名匠・オタール・イオセリアーニの最新作『汽車はふたたび故郷へ』は、自伝的要素を帯びつつも、どこか達観した視点が醸し出す浮遊感が、味わい深い逸品。撮りたい映画を撮ることのできる自由を求めて故郷を後にする、少々頑固な主人公の若き映画監督は、信念を貫き通すことの崇高さと同時に、それに伴う孤独をもまとっている。現在と過去、現実と虚構との間を自在に行き来する流麗なカメラワークは相変わらず健在であるが、大空を舞う伝書鳩など、自由に見えても逃れられぬ宿命を背負わされた象徴的なモチーフが、場所を移しても撮りたい作品をなかなか撮れずにいる主人公と重なり、独特のユーモアが彩るイオセリアーニ作品の中でも、よりペーソスが濃厚に漂う。水を打ったような静けさの中に、ミステリアスさがざわつくラストシーンは、知覚に縛られがちな観客の想像力を大いにかき立て、映画ならではの神秘的な世界へといざなうのである。

 多方面で活躍するクリエイターのマイク・ミルズが、波乱の晩年を送った父親と自身とのかけがえのない日々をベースに、忘れがたい物語を紡ぎ上げた『人生はビギナーズ』。妻亡き後、御年75歳にして同性愛であることをカミングアウトし、最後の5年間を自らに正直に生き抜いた父親の死から立ち直れない主人公は、(後から振り返れば)夫婦愛が希薄だった家庭環境のためか、恋愛も含めて親密な人間関係を築くのが苦手で、運命の相手かもしれぬ女性に対しても、尻込みする始末。そんな不器用な恋のキューピッド役を務める、亡父の愛犬の思わぬ活躍が温かな笑いを生みつつ、夫からの真の愛を得られぬ淋しさを紛らすように、ひとり息子と戯れるアンニュイな母親との風変わりな思い出が、当時の世相を切り取る数々の写真とともに、淡いタッチで綴られていく。終わりと始まりが交錯し続ける人生を、一進一退に歩む“ビギナーズ”の流儀は、あくせくした現代人にも目から鱗の、潤いをもたらしてくれる。

 昨年のヴェネツィア国際映画祭で、体当たりで挑んだ主演の染谷将太と二階堂ふみが日本人初となる最優秀新人俳優賞を受賞し、予想だにしなかった悲劇に沈む日本に一抹の光をもたらした『ヒミズ』が、遂に公開。カルト作家的なポジションから、『愛のむきだし』(09)以降、1作ごとに注目を浴びる存在となった園子温監督が、初めて手掛けた原作ものとしても話題を集めている。子どもは親を選べないが、次々と襲いかかる試練にも、前を見据えてがむしゃらに全力疾走する若いふたりを通して、東日本大震災後を生きる人たちにもエールを送る爽快なクライマックスは、血みどろの絶望の果てにのみ希望の兆しを見出す近年の園作品の中で、まぶしい衝撃を放つ。実際の事件に想を得てきた映画界の異端児が、容易には解決し得ぬ現在進行形の窮状の只中で産み落とした渾身作は、意外なほど真っ当な青春映画として、まっすぐ心に突き刺さる。

 目を背けてしまいがちなことを直視し、安全な位置から眺めているだけの観客の心をかき乱してきた異才・イ・チャンドン監督が、美と醜、抽象と具体とのせめぎ合いから生まれる“詩”を主題に撮り上げた『ポエトリー アグネスの詩』。常に脆さや狂気をはらむ彼のこれまでの作品の主人公と同様に、本作のヒロインとなる66歳の介護ヘルパーも、日に日にひどくなる物忘れと闘っている。離婚した娘に代わり、難しい年頃になったその息子をひとりで育てながら、夢見る少女のような可憐さも失わない。詩作教室に通い始めた直後に、彼女は忌まわしい事態に巻き込まれるが、記憶が薄らぐ中で、さりげない情景を仔細に観察し、自身の内面にもとことん向き合ううちに、ある一篇の詩を生み出すに到る。アナログなものづくりが死滅しつつあるご時世ではあるが、二度と訪れない瞬間を永遠につなぎ留めようとする詩作に、映画づくりの影を忍ばせたイ・チャンドンのしたたかな覚悟に、映画の明日を信じてみたくなる。

(映画ライター 服部香穂里)

第70回 “第二の人生劇場”


 偶然ではあるが、三十路そこそこの独身男女が、不意に自らの死と向き合うことになる『50/50 フィフティ・フィフティ』『私だけのハッピー・エンディング』を立て続けに観る。振り返れるほど長くもない過去に思いを馳せて涙にむせぶよりも、つらすぎる現実を底抜けのユーモア感覚で受け止めた上で、新たな恋をし、まだまだ健在である親とのこじれた関係を修復するのにも懸命な彼らの姿に、“今”という瞬間を丹念に積み重ね、日々を更新していくことの大切さをひしひしと実感。悲しみを笑いに変え、不幸の中にもささやかな幸せを見出す人生観がまぶしい、心に響く2作である。

 高校時代の初恋を成就させた中年男が、長年連れ添った愛妻から一方的に離婚を切り出され、カッコよく生まれ変わろうと奮闘する様をコミカルに綴った『ラブ・アゲイン』。彼を中心に、年上のベビーシッターに猛アタックを続ける少年、父子ほど歳の離れた相手に恋心を伝えられない女子高生、真実の愛に目覚めてしまった自分にとまどうプレイボーイなど、てんでバラバラな男女のそれぞれの転機が、ひねりの利いたサプライズを随所に忍ばせながら、絶妙にからみ合っていく。実力派キャストたちが持ち味を発揮しつつ、悪人がひとりも登場しないのも、誰かに何かを期待せずとも、自ら行動を起こしさえすれば状況も好転し得るということをポジティブに伝え、後味爽快な佳篇に仕上がっている。

 自身の人生を自己プロデュースしようと躍起になるあまり、よき理解者たちが差し伸べてくれる手をも振り払い、自死を選びとってしまう男の46年の激動の生涯を、彼を知る者たちの数々の証言から多面的に浮き彫りにしていく『天皇ごっこ 見沢知廉・たった一人の革命』。エリートコースに背を向けて革命家の道を爆走した見沢は、殺人という許されぬ罪による獄中での体験を肥やしに、念願の売れっ子作家の地位を手に入れるが、自分の意志で引き寄せたはずの憧れの人生に、次第に追いつめられていく。そうした様子は、息子を溺愛した母親らの口を通して間接的に語られるのみだが、あまりに強烈な証言ゆえ、限りなくリアルに近い光景を脳裏に再現し、叶えられた夢の先に待ち受ける悲劇の残酷さを、生々しく印象づける。

 将来を嘱望されてプロ野球界に足を踏み入れるも、選手としては鳴かず飛ばずに終わり、スカウトに転身後、貧乏球団だったアスレチックスのGMとして大輪の華を咲かせることになる実在の人物を、ブラッド・ピットが快演する『マネーボール』。選手の年棒やらネームバリューといった表面的な要素が、勝利につながると信じ込まれてきた保守的な業界に、コンピューターで緻密にはじき出したデータ主義を導入し、一見地味な“出塁率”を重視した新たなチーム編成により、旋風を巻き起こした異端児のサクセス・ストーリー。とはいえ、たった10年間の不甲斐ない選手生命や破綻した結婚生活など、彼の“負”の側面をも丹念に描くことで、いわゆる“感動の実話の映画化”とは一線を画し、逆境や選択を次々と迫られる重要局面での身の処し方など、様々な示唆に富む上質の人間ドラマでもある。

 婚約指輪を購入したまま、愛する人との記憶だけが欠落してしまった男が、想定外の切ない真実へとたどり着くまでの彷徨を、浮遊感漂うメルヘンチックなタッチで映し出す『指輪をはめたい』。自分が本当に指輪を渡したかった相手が誰なのかを探るべく、三者三様の魅力でアプローチしてくるお嫁さん候補の間を、図々しくもフットワーク軽く行き交う彼は、謎のスケート少女の導きにより、現実と妄想が曖昧に溶け合った異空間へと迷い込む。過去の恋愛をドライに吹っ切り、次なるステージへと颯爽と歩き出す凛々しき女たちを横目に、捨て切れない未練や後悔に縛られたままの男は、かつての恋人たちの背中を複雑な気持ちで見送りながら、その場に立ち尽くすしかない。そんな男女の永遠のすれ違いを、いつにもましてズタボロの山田孝之が、ペーソス豊かに体現している。

(映画ライター 服部香穂里)

第69回 “正義の見方”


 森とともに生活を営み年輪を重ねてきた人生の大ベテランと、漠然とした不安や悩みを胸に将来を見据えようとする高校生との、束の間の交流を見つめたドキュメンタリー『森聞き』。老若4組の、ホームステイ以上、弟子入り未満の濃密な関係が育っていく様を観ながら、誰しもが通る多感な時期に、自分だけのヒーロー、ヒロインにめぐり逢えた若者らが、うらやましく思えた。実感を伴わぬままコロコロ更新される政府のもと、ビジョンが描きづらい時代であるが、達人たちの腹の底に響く言葉の数々は、彼らの血肉となり、これからの様々な局面で、大いに力を発揮するであろうから。

 第二次世界大戦の只中、人一倍の愛国心とは裏腹に、生まれもった脆弱な肉体のせいで入隊できずにいる青年が、米国軍の極秘計画の実験台として筋骨隆々の“スーパーソルジャー”へと変貌を遂げ、銃弾をもはね返すシールドを片手に躍動する姿を描く『キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー』。外見は様変わりしても中身は純真なままの愛すべき主人公を演じるのに、たまたま携帯電話がつながってしまった見ず知らずの女性の危機を回避すべく奔走するお人好しを快演した『セルラー』(04)のクリス・エヴァンスは正にハマリ役で、真のヒーローに必要な条件を、嫌味なくナチュラルに体現する。米国を中心に語られてきた感のある“正義”の概念が揺らぐ現在、好戦的なムード一色のあの時代の異様な熱狂に包まれた彼が時折見せるとまどいは、大義名分の下で犠牲になってきた多くの人々への、鎮魂にも見えてくる。

 作品間に明確なつながりはないものの、主演の小林聡美をはじめキャストや内容の類似性により、『かもめ食堂』(06)シリーズの最新作として位置づけられそうな『東京オアシス』は、密かな問題作『マザーウォーター』(10)から連続登板となる松本佳奈が、共同監督を務めている。『かもめ〜』の舞台となったフィンランドを皮切りに、居場所を求めて各地をさすらってきた小林であるが、今回の彼女は、ホームグラウンドともいえる東京で、煮詰まり気味の心をもて余している。劇中で“似顔絵が描きづらい”と評される彼女の表情のアップが、いつになく重ねられることで、平穏で淡々としたイメージを抱かれがちな彼女の実人生のうねりすらも、静かに浮き彫りにされる。そんな彼女の背中をそっと押すのは、見かけによらず勇敢ななで肩の青年や、一足先に新たな道を模索し始めた昔なじみたち。正解のない人生を切り拓き、“どこか”ではなく“ここ”をオアシスにしようと格闘する彼女らの葛藤は、シリーズ随一のリアルさで迫ってくる。

 大切な家族とともに普通に生活するだけのことが、いかに困難で、それゆえに尊いかということを、アカデミー賞ノミネートも納得のジェニファー・ローレンスの力演が光る、大人と子どもの間をたゆたう17歳の凛々しきヒロインが、命懸けで証明する必見作が『ウィンターズ・ボーン』。荒廃した小さな村で、犯罪者の父と、精神を病んでしまった母に代わり、窮乏する日々にもささやかな幸せを見出しながら、幼い弟と妹の世話をしてきた主人公に、保安官から突然、保釈後に失踪した父を見つけないと家を失うという宣告が下される。タイムリミット1週間の父捜しの過程で、曲者揃いの親戚たちから次々と理不尽な仕打ちを受けつつも、最後まであきらめない彼女に根負けしたかのように、男に従属してきた村の女たちも、一族を束ねる血の掟を破り、それぞれの“正義”に基づく大胆な行動に出る。その皮膚感覚に訴える壮絶な覚悟に戦慄を覚えながら目が離せなくなってしまうクライマックスに、この印象的なタイトルが、切なくも温かな余韻を与えている。

(映画ライター 服部香穂里)

第68回 “毒とクスリのあいだ”


 煙草は吸わないが、喫煙室に抵抗はない。愛煙家にも何かと風当たりの強いご時世に、それでも吸わずにはおれないから吸うという覚悟をもって集う人々が、毒を薬のように食らう空間の居心地は、案外悪くはない。

 キャリア初期の“悪意”は影を潜め、『あの子を探して』(99)などの少々鼻につくヒューマニズムを謳う人間ドラマと、自らの欲望をあるがまま実現させたかのような『HERO』(02)などのド派手なアクション大作を二本柱に、世間的地位を向上させてきたチャン・イーモウ。少々胡散臭いポジションに陣取っているように見えなくもない彼が、久々に低予算時代の作品群に充満していた毒と、大家になって以降の彼のトレードマーク(?)ともいえる悪趣味なほどの豪奢さとを、程よく溶け合わせた快作が、『女と銃と荒野の麺屋』。コーエン兄弟の出世作『ブラッド・シンプル』(84)を下敷きにしつつ、イーモウならではの色彩感覚と、私利私欲をむき出しにしながら自滅していく登場人物たちの、愚かだがどこか憎めぬキャラクター造形が生き、さらに、タイトルのせいか、どこかピーター・グリーナウェイの『コックと泥棒、その妻と愛人』(89)風のテイストも感じられ、イーモウのパクリの達人としての本領、もとい、リスペクトの名手としての手腕が、存分に発揮されている。

 昨年、テレビ東京系で放送されていた「モテキ」は、深夜枠という放送時間帯に、カラッとした毒の利いたユーモアがマッチして、ついついチャンネルを合わせてしまう好篇であった。そんなむっつり助兵衛なドラマが公共の映画館に、しかも、恋に恋するバーチャル肉食系男子・藤本幸世=森山未來を取り巻く女優陣は映画化にあたって一新され、さらに配給を手掛けるのが、メジャー・オブ・メジャーの東宝と知り、“……どうなん?”と、その動向を密かに見守っていたのである。ドラマ版では、遥か先を行く女たちが強力すぎて、彼女らとの交流を経ても、何ら成長できずに自己完結してしまう藤本の悲哀が、涙まじりの笑いを誘ったが、映画版の藤本は、本命の彼女をあきらめようとしない“らしからぬ”ガッツを発揮し、その頑張りが、彼女たちのハートにまで火をつけてしまうため、笑うに笑えない修羅場が訪れたりもする。過去の失敗を薬にささやかな成長を遂げる藤本に、感慨深さと同時に、一抹の淋しさを感じたのも事実である。

 古きよき時代のスクリューボール・コメディの香りのする佳篇『ステイ・フレンズ』。トップ・シンガーとして活躍するかたわら俳優業もこなすジャスティン・ティンバーレイクと、『ブラック・スワン』(10)でヒロインのポジでもありネガでもあるセクシーな小悪魔を快演したミラ・クニスとの抜群の相性が、一見、毒にも薬にもならなそうなボーイ・ミーツ・ガールもの(プラス10歳強)を、すこぶるチャーミングな作品へと進化させる。自虐を恐れぬ強靭なユーモア・センスにナイーヴさを忍ばせるふたりゆえに、あけっぴろげな友人関係から男女の恋愛へと踏み出そうとする過程で陥るジレンマを、大らかな笑いで包み込みながら、さりげなくリアルに体現できるのだ。結婚という形式ばったゴールに押し込まず、とりあえず一緒に過ごす時間をいとおしむことに幸福を見出すカップルの有りようは、未来の不確かさを痛感させられている身には、妙にまぶしく映るのである。

 数々の賞に輝いた『戦場のピアニスト』(02)により、“異端”から“巨匠”へ祭り上げられた感のあるロマン・ポランスキーであるが、本来の彼の資質であるパラノイア的な嗜好が、全篇にわたり毒々しく蔓延する怪作が『ゴーストライター』。元英国首相の自叙伝を執筆することになったライターが、書き進める過程で驚愕の真相に絡めとられていくというプロット自体は、さして目新しくもないが、本作の不気味な面白さは、物語の入口としての明確な“起”こそあれ、その後の“承・転・結”が、作品の舞台となる孤島の曇りがちでウェットな気候の中で混じり合ううちに、気づくとエンディングに導かれている、ポランスキーの確信犯的に底意地の悪い演出にある。観客の道しるべともなる名もなきライター役で、おぼろげだが確かな存在感を放つユアン・マクレガーの視点に固執することで、従来のイメージを逆手にとったかのような俳優陣の“含み”を残す各キャラクターの実像が曖昧になり、観客に提示される一見フェアな事実ですら、実際はライターの妄想に過ぎぬのでは……という疑問が頭をもたげ、鑑賞後にまで延々と尾を引き続けるのだ。

(映画ライター 服部香穂里)

第67回 “家族の肖像”


 先月の19日に亡くなった原田芳雄氏は、“血縁だけが家族じゃない”と、度々口にしていたという。しかし、その言葉は裏を返せば、根底にある血のつながりを、彼が非常に大切にしていたことの証なのではないか……と、喪主を務めていた長男・喧太氏の堂々たる立ち居振る舞いに、その思いを強くした。そもそも、映画の成り立ち自体が、集合と解散を繰り返す、かりそめの家族のようなもの。そんな現場をこよなく愛し、最後の作品となった『大鹿村騒動記』に到るまで、生涯現役を貫き通した唯一無二の映画俳優の魅力は、ナナゲイはじめ関西の各劇場で組まれる特集上映の作品にも、濃密に刻まれている。

 すべてを観届けた後で、タイトルの意味がじんわり利いてくる佳篇が『リメンバー・ミー』。主演を務めるロバート・パティンソンは、若い女性を中心にブレイクするきっかけとなった『トワイライト』シリーズでは、老いることのない肉体をもつヴァンパイアの哀しみを、蒼白の肌に染みわたらせているが、今回演じる青年は、家族を顧みない父を憎み、絵の才能に秀でつつも周囲になじめない妹を愛し、亡き兄の年齢に追いつこうとしている自分に苛立ち、限りある生を浪費するがごとく日々を悶々と過ごしている。そんな彼が、母親を目の前で殺された過去をもつ女性と出逢ったことで、誕生日の憂鬱が喜びに変わり、ひび割れた家族の溝も、少しずつ埋められていく。いつものように迎える朝。反抗的な息子や過保護な父らとのちょっとした諍いも、そんな家族がそばにいるだけで幸せなのだということを、不意に訪れるラストが、静かに語りかけてくる。

 長年にわたる映画人生に自らピリオドを打った、99歳の新藤兼人監督最後の渾身作が『一枚のハガキ』。故郷の広島に原爆を投下され、多くの戦友を見送り、数々の死者の命の重みを原動力に、映画を撮り続けてきた新藤監督が、最後の作品に選んだテーマも、やはり“家族と戦争”であった。戦争によって破壊されつくした家庭に、人生を翻弄された農家の嫁は、終戦を迎えた後も、幸せになることを拒絶するかのように、“余生”を淡々と生きていた。そこに、彼女が出征中の夫に宛てて、シンプルだが熱烈な愛をしたためた葉書を手に、戦死した夫の戦友が訪ねてくる。彼もまた、父や娘に裏切られ、人生を見失った戦争の犠牲者であり、くじ運のよさだけで生き永らえた自分を、呪ってさえいた。戦争を縁に遭遇したふたりが、すべてを終わらせ、また始めようとする姿に、完全燃焼した新藤監督の“これだけは言っておきたい”と次代に託す、平和への痛切な願いが込められている。

 寡作の名匠・テレンス・マリックの新作を、リアルタイムで体感できることの喜びに浸りたくなる、傑作にして問題作が『ツリー・オブ・ライフ』。夢をあきらめ子どもたちに厳しく接する父、いつも笑顔で家庭を灯す母、そして、優しい母のことが大好きで、“人間は強くあれ”と息巻く父が苦手な3人の息子たち。長男は、そんな父の人生を否定しつつも、その影に支配され、ビジネスの成功者に昇りつめたが、優しすぎた亡き弟の幻影を追い求め、心を満たすのは虚無感ばかり。後戻りできない人生の痛みを全篇にたたえながら、彼らの一方通行の詩的なモノローグが、時空間を自在に飛び越え、1950年代のごくごく平均的な一家の物語を、時にシュールに、時に情感豊かに紡ぎ出していく。理不尽な死に溢れている現在、途方もなく続く生命の歴史の一部として、自身が生を受けた神秘に対する畏怖と感謝の念を忘れずにいることが、遺された者にできる、唯一の供養なのかもしれない。

(映画ライター 服部香穂里)

第66回 “あやしい語感”


 ひらがな、カタカナ、漢字まじりで表現される日本語は、都合のよい造語を次々と生み、無限の可能性を秘める一方で、何ともうさんくさく曖昧な言語でもある。だからこそ、格闘する価値がある、ともいえるが。

 見上げるといつも、すべてを見守り、見透かしているかのように広がる青い空。漠然たる不安感をそこに見出したのは、あの柄本明が監督を務めた早すぎた怪作『空がこんなに青いわけがない』(93)であったが、三重県の四日市で、自然の恵みの源でもある青空を奪われ、運命の歯車を狂わされた人たちの怒りや悲しみを、淡々と見つめる『青空どろぼう』。伊勢湾一の漁師を夢見ながら気管支ぜんそくを発症し、78歳の現在も前向きに闘病を続ける野田氏と、四日市の公害の全容を、穏やかな佇まいを崩さず黙々と記録し続けている82歳の澤井氏。コンビナート企業を恨むのではなく、敗戦から高度経済成長へと急進した日本政府の綻びの余波こそを、これからの世代に伝えたいと願う野田氏のスタンスに共鳴するがごとく、本作も、青空を奪った存在を単純に突き詰めたり糾弾したりはしない。公害という名の悲劇が引き合わせた対照的なふたりの、40年近くに及ぶ唯一無二の信頼関係に焦点を当てることで、声高な社会派ドキュメンタリーとは一線を画し、現代、未来にも通じる心揺さぶる人間ドラマとなっている。

 暗い闇が立ちこめ、しんと静まり返った池に、ぬっと浮かぶ3つの遺体。ホラー映画さながらに幕を開ける『復讐捜査線』は、『007』シリーズなどで知られるマーティン・キャンベル監督&かのメル・ギブソンという超メジャーなタッグの実現でありながら、どこかB級感漂う邦題に見合った、それでいて、両者の本気度が全篇からほとばしる、不思議な肌合いの作品である。目の前で無残に殺された愛娘の死の真相を追う刑事にふんしたメル・ギブの、スティーヴン・セガールも真っ青な破れかぶれのスタンドプレーが、娘を亡くした父親の喪失感を極端すぎる形で具現化し、呆気にとられているうちに、なぜか涙がちょちょぎれる始末。大企業の恐ろしい陰謀の犠牲となる娘は、限りなく人災に近い天災に見舞われた現在の日本の状況とも微妙に重なり、常識からは逸脱しようが、自らが信じる正義を命懸けで実行する主人公に、苦境に屈せぬリーダー像のあるべき姿の一端が、垣間見えたりもする。

 タイトルの意味は未だ飲み込めぬままであるが、SABU監督×心温まるコミック原作もの、うさぎ×ドロップ、松山ケンイチ×芦田愛菜などなど、すべてにおいて明らかにちぐはぐな組み合わせでありながらも、そんなアンバランスさこそが、『うさぎドロップ』の魅力でもある。企画との遠い距離を何とか自分に引きつけるためか、SABUは、身体能力に長けた松山に、芦田嬢をお姫様だっこまでさせた上に、初期作品のパートナーであった堤真一よろしく、ひたすら走らせる。無邪気で可愛らしい娘というよりは、年齢の離れた恋人に近い魔性を放つ芦田に対し、新米パパ・松山に、寝ても覚めても体力の限界まで尽くさせるのである。その結果、SABU特有の暴走する妄想の世界の中で、若くしてアクの強い演技が持ち味の凸凹コンビの毒気が、絶妙に中和し合い、時に艶っぽさすら漂う父娘愛へと昇華されている。

 “蜂蜜”“ミルク”“卵”と、生命そのものを人間が横取りしているかのような罪悪感すら覚えるモチーフばかりをタイトルに掲げながら、主人公・ユスフの半生を追う3部作の完結篇であるが、年代的には『卵』、『ミルク』と遡り、最も若い少年期にあたるのが、ベルリン国際映画祭で金熊賞に輝いた『蜂蜜』。吃音ぎみで牛乳嫌いのユスフ少年が、物静かだが息子想いの養蜂家の父と過ごす時間のかけがえのなさは、牛乳配達をして母を支えながら詩人を志すユスフの青年時代を描く『ミルク』、詩人となったユスフが母の死を看取ったという美少女とともに旅をする『卵』を経て、さらに輝きを増す。極端に削ぎ落とされた台詞の中で、トルコの気鋭・セミフ・カプランオール監督の卓抜した視覚と聴覚が存分に発揮され、鳥のさえずりや渓流の響き、父と歩いた森に射し込むやわらかな陽光などが、ユスフの言葉にできない心の声とささやかな成長を、見事に代弁している。

(映画ライター 服部香穂里)

第65回 “おわりのはじまり”


 海外ドラマは、シーズンごとの出来が命運を握るため、1話完結の形であれ、伏線が巧妙に張られ、最終話も、次なるシーズンへの布石として重要な意味をもつ。現在放送中のNHK朝の連続テレビ小説「おひさま」も、トータルで半年間という長丁場の中、1週間をひとつの小さな単位として、現在までのところ、充実の仕上がりを見せる。井上真央、満島ひかり、マイコという同世代の女優陣が、“永遠の友情を誓い合ったお友だち”を、それぞれの個性をギラつかせて熱演しているのも、朝に似合わずスリリング。さらに、語りも務める若尾文子と聴き手の斉藤由貴が、『アマデウス』(84)のサリエリと神父がごとく、週の初めと終わりに登場して心地よいリズムを刻み、翌週への期待感を高めるのに貢献している。

 ベルリン国際映画祭で金熊賞と批評家連盟賞をW受賞した『悲しみのミルク』のヒロインは、ペルーの凄惨な過去を体現するかのような母親が、最期まで忘れることのできなかった恐怖や怒り、憎しみを、幼い頃から母乳を通して自分も引き継いでいると信じ込んでいるために、人目を惹く美貌に恵まれつつも、男性なるもの全般への不信感に満ち満ちた不安げな表情を常に浮かべながら、未だひとりで出歩くことすらできずにいる。作品の冒頭で、意味深な歌を遺して他界する彼女の老母は、遺体となった後もいよいよ存在感を増し、事あるごとに娘にとっての重々しい枷となるが、それと同時に、頑なに閉ざされた彼女の心を、徐々に解きほぐしていくきっかけともなる。その時の率直な気持ちを即興的に唄う彼女の歌には、母親の後ろ向きな恨み節とは異なる、きりりと前を見据える意志のようなものが宿り、母娘の別離は、母親なしでは生きてこられなかった娘の、ささやかな独立宣言でもあるのだ。

 あらゆる技術が格段に進歩を遂げ、実写とアニメーションとの境界線がますます曖昧になる中で、細やかな手仕事によるクレイアニメーションにしか表現し得ない世界を見事に構築した『メアリー&マックス』。オーストラリアに住む8歳の少女・メアリーと、アメリカのアパートでひとり暮らしの44歳のマックス。甘いものに目がなく、お気に入りのTV番組もたまたま同じであった彼女たちの最大の共通点は、とてつもなく孤独であること。相当にヘヴィーでグロテスクな各々の日常を、さらさらと紙いっぱいに書き連ねて投函するという、ふたりだけのユニークな方法で、直接言葉を交わすことはなくとも、その交流は20年にも及んだ。したため続けた山あり谷ありの凸凹男女の人生は、並行線をたどりつつも大陸や世代を超えて確実に交錯し、お互いにかけがえのない親友同士として影響を与え合っていたこと、百聞が一見に勝ることもあるということを、作り手たちの想いがスクリーンの端々にまで込められたクライマックスは、もの悲しくも温かく語りかけている。

 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『BIUTIFUL』と、石井裕也監督の『あぜ道のダンディ』は、肌合いはまるで違えど、抗いつつも引き込まれてしまう死への誘惑、死は必ずしも終わりではないという親近感に貫かれた、いずれ劣らぬ珠玉の人間ドラマである。『BIUTIFUL』の主人公・ハビエル・バルデムは、自分の余命がわずかであることを誰にも打ち明けられぬまま、遺される家族のため、ありったけのことをしてやろうと奔走するが、そのガムシャラさが裏目に出て、思わぬ悲劇に見舞われもする。そんな決して“ビューティフル”とはいえない最後の日々に、かすかな光をもたらすのが、若くしてこの世を去ったため、まったく彼の記憶の中にいない父親の存在。そんな父子の幻想的かつ映画的な“再会”は、愛しい子どもたちを置いて旅立たねばならぬ彼にとっての、切実な祈りのようなものにも映る。片や『あぜ道のダンディ』の光石研は、思わしくない体調が、最愛の妻を亡くした時の症状と酷似していることから、自らの命の終わりを悟り始めるが、ふたりの子どもの前では自分なりのダンディを気取る彼には、バルデムと違い、カッコ悪さをさらけ出すことのできる長年の親友・田口トモロヲ(好演!)がいる。それに加え、妻が亡くなる直前に吹き込んだ、ある思い出の歌のテープが、心の支えとなる。妻にも逢いたいけれど、もう少し子どもたちとも過ごしたい。そんな引き裂かれた気持ちが見事に溶け合う、ほどよいチープさがたまらぬ泣き笑いのミュージカル・シーンには、石井監督の死生観、人生観が凝縮されている。

(映画ライター 服部香穂里)

第64回 “偽善と偽悪”


 当各商品のCMに出演中のタレント+αが勢揃いして、坂本九の『見上げてごらん夜の星を』を1フレーズずつ唄う、某企業のCM。てんでバラバラの歌を、半ば強引に力技でつなぐ編集センスに感心すると同時に、あくまでアーティストとして情感豊かに歌い上げる人、役者としての現在と歌手としての過去との間で逡巡する人、歌うことへの苦手意識を拭えない人、無邪気にレコーディングを楽しんでいる人など、状況が状況だけに、声をかけられた限りは断れないご時世にあって、各自の芸能人としてのスタンスやら、偽らざる素顔やらが垣間見え、これで宇宙人・ジョーンズが揃えば完璧やのに……などと、ないものねだりをしつつ、ついつい見入ってしまうのである。

 女優同士の濡れ場などといった俗っぽいパッケージの内側で、アトム・エゴヤン監督らしい様々な知的趣向が施された意欲作が『クロエ』。『赤ずきん』『ジュリエットからの手紙』など、主演作が相次ぐアマンダ・セイフライドの落っこちそうなクリクリ目玉が、徐々に狂気を増していく本作のタイトルロールを演じるにあたっても、存分に生かされている。奇妙な依頼をする、無意識の悪意に満ち満ちた裕福な産婦人科医(ジュリアン・ムーア、貫禄の巧演)の心の隙間に侵入し、その偽善者ぶりを静かにあぶり出す、偽悪的な娼婦・クロエ。すべてを手に入れているのに、それにも飽き足らず不安で仕方がない熟女と、まだ若いながらも、失うものは何もない風情の捨て猫のような小娘のバトルは、攻守が目まぐるしく切り換わり、突如訪れる事故のような幕切れにも、自らの意志を介在させたクロエの決断は、恐ろしくも物悲しい、しこりにも似た余韻を残す。

 『再生の朝に ある裁判官の選択』の主人公は、人が人を裁くということに疑問も躊躇も挟まず、淡々と職務をこなしてきた真面目な裁判官。愛娘の命を理不尽に奪われ、ますます仕事に没頭するようになるが、そんな彼の、人間としての本能のようなものを呼び覚ましたのは、娘亡き後の崩壊寸前の夫婦関係を辛うじて繋ぎ止めていた、愛犬の存在だった。犬を飼うにも何かとややこしい中国にあって、登録料を払っていなかったのか、裁判官の犬も当局に奪われそうになるが、終始冷静な態度で通してきた彼は、ここで初めて、自らも法に背いていることはとりあえず棚上げし、“家族”のため、半狂乱で闘う。二台の車を盗んだだけで死刑判決を受けた青年に対する認識の変化のきっかけが犬というのも、皮肉めいてはいるが妙にリアルで、法律家である前に一個人として案件と向き合うことの重要性に立ち返った末に出した結論は、塞ぎがちの彼や妻に、穏やかな微笑をもたらすのである。

 あるレズビアン・カップルと、同じ遺伝子上の父親を介して誕生した姉弟との、一見風変わりだが、その実、ごくありふれた家族の肖像を、ひねりの利いたユーモアをたたえつつ細やかに描き出した『キッズ・オールライト』。思春期や反抗期も一通りあっただろうが、典型的な家庭以上に波風を立てず、“いい子”を演じながら、協力し合って暮らしてきたに違いない仲のよい姉弟が、ふたりの母親には内緒で父親を探り当てたことで、にわかに一家は色めき立つ。時には憎まれ役を買ってでも、大黒柱として家族を養ってきた自負のあるアネット・ベニングは、子どもたちとも打ち解けたのをいいことに父親気取りの遺伝子提供者(マーク・ラファロの見事なヘタレっぷり!)に、“家族が欲しけりゃ、自分で作れ!”と一喝する。ともに過ごし、泣き、笑い、怒り、いたわり合うからこそ、少しずつ家族になっていく。斬新な切り口から家族のありようが見える佳篇である。

(映画ライター 服部香穂里)

第63回 “こんなときも。”


 当たり前のように訪れていた明日が、来ない。手に届くはずのあらゆるものが、消える。ひたすら無力感に襲われた2週間あまり。“こんなときに”と“こんなときこそ”の間で揺れつつ、観て、書くことしかできんと開き直り、腹をくくる。 

 理不尽な災厄は、人間の天性を露にする。96年のアルジェリアで実際に起きた悲劇を題材にした『神々と男たち』のフランス人修道士たちは、内戦に巻き込まれ、武装イスラム集団の魔の手が忍び寄る中で、信仰や死への恐怖など、あらゆる葛藤と闘いながら、アルジェリアに留まることを決意する。死の危険にさらされる極限下においても、その瞬間まで自分らしく生きることを、自ら選び取るのである。ある覚悟を共有する彼らが最後に酒を酌み交わす時、バックに流れるチャイコフスキーの「白鳥の湖」の物憂げなメロディーとともに、修道士ひとりひとりの顔が、ゆっくりとアップで映し出される。その直後に7人が誘拐され、全員が殺害されるという凄惨な結末で映画も幕を降ろすが、観終わった後も脳裏に鮮明にこびりついているのは、最後の晩餐で見せた彼らの、厳粛さすら感じられる、晴れやかな面立ちであるのだ。

 正に「白鳥の湖」ズバリに想を得た『ブラック・スワン』も、バレエという芸術に身を捧げたダンサーの、あまりにスリリングでやるせない魂の彷徨に肉迫した力作。前作『レスラー』(08)でも、プロレスにすべてを懸けた男を生々しく描き出したダーレン・アロノフスキー監督であるが、主人公が男性から女性に代わっただけで、かくも視点が厳しく、深遠になるものか。ストリッパーを演じた『クローサー』(04)の時ですらヌードをためらった、見るからに“白鳥”タイプのナタリー・ポートマンが、盛りを過ぎたかつての名プリマ(ウィノナ・ライダー、怪演)に導かれるように、演技という枠を超え、どす黒い“黒鳥”へと変貌を遂げる終盤は、文字通り鳥肌もの。彼女が得たものと、あまりに大きなその代償を示唆するラストの台詞ににじむのは、『レスラー』のようなある種のカタルシスではなく、誰もが幸福を求めながらも、なかなかそれに到達できない、人生の痛みである。

 ある男女の出逢いと別れを、まったく異なる手法で見せる『ブルーバレンタイン』と『素晴らしい一日』。片やライアン・ゴズリング&ミシェル・ウィリアムズ、片やハ・ジョンウ&チョン・ドヨンという実力派同士のカップリングが、作品の肝であることは間違いなく、言葉とは裏腹に、ふたりの間に屈折した愛が貫かれている点で両作は共通しているが、その着地点がもたらす余韻は、真逆である。『ブルーバレンタイン』は、可愛い娘との一見幸福な三人暮らしながらも、実際の夫婦仲は冷えかけているカップルの現在と、彼らが運命的に恋におちたまぶしい日々を、回想という形はとらずに、並行して描いていく。ふたつの時間が重なり合うエンディングの、えも言われぬ幸福感と、それゆえの切なさ……。『素晴らしい一日』では、知らぬ仲ではない男女が、車で一日、借金行脚に繰り出す。会話の端々から、かつては愛し合ったであろうふたりの過去がほのかに浮かび、崖っぷち人生の只中ですっかり塞いだ女の心は、いい加減だが憎めぬ男によって、ゆるやかにほぐれ、車を降りた男を見つめる女の表情が、タイトルの意味を心地よく物語る。各人物の空白の時を見事に補完した4人の名演が、いずれ劣らぬ重層的魅力溢れる佳篇へと昇華させている。

 香港に潜入した孫文の暗殺計画を阻止すべく立ち上がった名もなき者たちの死闘を、ドラマはベタに、アクションは派手に描ききった『孫文の義士団』は、燃えに萌えまくる快作。度肝を抜かれる冒頭から結末まで、プロデューサーのピーター・チャンの人脈か、よくぞこれだけ集めたと嬉しくなる豪華キャストそれぞれに、見せ場が用意されている。整った容姿を敢えて傷つけたニコラス・ツェーの心意気、某CMで小籠包をハフハフさせていたファン・ビンビンの元亭主役・ドニー・イェンの身体張りすぎなラスト・ファイト、暗殺団のボスというポジションながらも単なる悪役に終わらないフー・ジュンの深み、さらに、ルンペン姿が意外と似合うレオン・ライの、『天使の涙』(95)好きにはたまらぬサービス・ショットまで、ひとりひとりの散り際が、彼らの生きた証として、フィルムに刻みつけられる。同じ“孫文”を切り口にしつつも、多彩なドラマを紡ぎ出してしまう香港映画人の底力は、芸のない大河ドラマに食傷気味の身には、何とも頼もしく映るのである。

(映画ライター 服部香穂里)

第62回 “カミング・アウト!”


 食のドキュメンタリー・ブームの火付け役ともなった『いのちの食べかた』(05)は、残虐な作業をシステマティックにこなす従業員、“いのち”がレーンに組み込まれた途端に“もの”へと成り果てる様子などを、余計なナレーションなど抜きに淡々と捉え、その“寡黙な多弁性”が衝撃を与えた。それに対し、オスカー候補に挙がった『フード・インク』は、一部の多国籍企業が富を独占する現在の食糧地図に、声を大にして警鐘を鳴らす意欲作。次々と明かされる事実は、気が滅入るものばかりであるが、全篇に一貫して流れる作り手たちの鼻息荒き正義感や信念は、観る者に食生活を見直すきっかけを与える、ポジティブさに満ちている。片や、ウィーンで廃棄される大量のパンの山の衝撃映像で幕を開ける、オーストリア発『ありあまるごちそう』は、儲け主義の会社の理念と個人の理想とのジレンマに苦しむサラリーマン、見るからに不衛生な水をガブ飲みし続ける赤ん坊らの“声にならない声”が、不敵な笑みをたたえるネスレのCEOが振りかざす、一方的な勝者の論理の隙間から漏れ聴こえ、深い影をおとす。

 今年のゴールデングローブ賞に輝いた青春ドラマの傑作『Glee』の魅力のひとつは、誰もが知る名曲の多面的な歌詞から、新たな世界が紡ぎ出されること。その原動力が、日本以上に厳しい生徒間の階級闘争渦巻くアメリカの片田舎の高校において、それぞれに複雑な事情を抱えるグリー部の個性豊かな面々の、歌を通して逆境すらも輝きに変えてしまう強靭な反骨心で、それは、ある感情の自然な発露として歌が位置づけられる従来のミュージカルとは、逆行した要素である。ディズニーの長篇アニメーション第50作『塔の上のラプンツェル』も、自身が王女であるとも知らずに塔に18年間も軟禁された、負のオーラをまとっていてもおかしくない悲劇の少女が主人公であるが、偽りの母を信じきっている当人は、強制的引きこもり状態に転がるささやかな喜びを拾い集め、のほほんと唄ってみせる。やがて、王子様の代わりに現れたハンサムな泥棒に導かれ、外の世界で味わうときめきを次々と歌に託すが、その情感を一層豊かにするのは、平穏なお嬢様生活と対極にある環境ゆえに育まれた、ヒロインらしからぬリアクション過剰ぎみの愛らしさなのである。

 デンマークの鬼才・ラース・フォン・トリアーの最新作『アンチ・クライスト』は、彼が鬱病に悩まされていた時期に書いた脚本が基になっているというだけあり、いつになくその素顔が窺える渾身の1作。『奇跡の海』(96)『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(00)『ドッグヴィル』(03)など、これまでのトリアー監督の作品は、極限状態に置かれた人物たちを粘っこく観察することで、様々な問題を提起しているかのようで、その根本に、人々が理不尽な運命に翻弄されるのをどこか楽しんでいるかのような、彼の底意地の悪さが見え隠れしていたのだが、今回は、すべての悪夢の発端となる夫婦の幼い息子の死を、ヘンデルのアリア『私を泣かせてください』をバックに、悪趣味なほど美しいモノクロの映像で映し出す冒頭のプロローグからして、既に確信犯的な悪意に満ちている。『最後の誘惑』(88)でキリストにふんしたウィレム・デフォーに敢えて演じさせた矛盾だらけの夫と、シャルロット・ゲンズブールが今後の彼女のキャリアが心配になるほどの鬼気迫る熱演をみせた妻との壮絶なバトルの結末に、トリアー監督の“俺は、エセ・フェミニストだ!!”との雄叫びが聴こえる気がして、その痛切なまでの潔さに、心地よさすら覚えるほどである。

 人前で話すのが苦手なシャイな性格である上に、幼少期から吃音に苦しみ、挙句の果てには、次男坊であるにも関わらず、長男の身勝手から望みもしない王位のポストが転がり込んでくる…そんな三重苦にあえぐジョージ6世が、型破りなスピーチ矯正人と行動力溢れる気丈な妻に支えられながら、立派な王へと脱皮する様を温かく見つめた『英国王のスピーチ』。昨年の『シングルマン』に続き、本作で2年連続アカデミー賞主演男優賞にノミネートされているコリン・ファースの素晴らしさは、自身の内なる傷と徹底的に向き合い、それをすべてさらけ出すだけの度量をもち、脚本に書かれたキャラクターを、血の通った生身の人間として、見事に体現し得ていることである。クライマックスのスピーチに、妻役のヘレナ・ボナム=カーター(好演!)ならずとも固唾を呑み、いつの間にやら聴き惚れてしまうのは、ひと言ひと言にジョージ6世の人となりが溢れ、そこに、演じる人物への敬意に根差した、役者としてのコリンの誠実な姿勢を見るからであろう。

(映画ライター 服部香穂里)

第61回 “あしたのために・・・”


 今年一発目に観た映画は、『あしたのジョー』。新年早々に燃え尽きるんかいな・・・・・・と独りごちつつ、1年先でも、遥か未来でもなく、ただひたすら“明日”だけを見つめて、無謀極まりない減量やトレーニングに励む力石徹、いや、そんな常軌を逸した漫画ならではのキャラクターに、ありったけの心血を注ぎ、ギラギラと息づかせた伊勢谷友介の役者魂に、ただただ脱帽。というわけで、抱負なんて大層なものを立てる代わりに、よりよい明日を生きるために、様々な意味で役立ちそうな作品に触れてみたい。

あしたのために・・・その1 我が道を行く
 資本主義経済の派手々々しい結晶のような、豪華客船上から幕を開ける『ゴダール・ソシアリスム』。いつもながらの膨大なサンプルを編み込んだコラージュ作品全篇に散りばめられた、観る者を挑発し続ける“ほのめかし”、絶えず無力感に襲われる“ひけらかし”は、ゴダールが定義する社会主義というよりは、ゴダール主義、ひいては、社会を構成する各々が自らの正義を貫く個人主義を、ささやかに擁護する。それは子どもとて同じで、こまっちゃくれた天才少年の、小難しい台詞を淀みなく喋る堂々たる論客ぶりに、大人も顔負けの、自らの足で立ち、考え、行動する、将来を担う子どもたちへの、ゴダールじいさんの期待がちらりと覗く。

あしたのために・・・その2 最悪は最高への転機
 人生最悪のどん底に沈んでいた男女が、つまずき、よろめき、道を見失いそうになりながら、ひとつの愛にたどり着くまでを、温かく見守る佳篇が『幸せの始まりは』。超セレブな大リーガーと天秤にかけた上で、人の好さだけが取り柄のボンボンを選ぶヒロインは、現実的ではないかもしれないが、とことん自身と正直に向き合った末に、いかなる苦境をも笑いに変え、卑屈な愚痴などとは一線を画す自虐的なユーモア感覚を身につけ、共有し合うことのできた奇特な男女は、この世知辛い世の中にあって、案外地に足のついた強力カップルとなり得るのではなかろうか。

あしたのために・・・その3 さよならだけが人生か?
 内モンゴル自治区にある、蒸気機関車最後の聖地ともいわれる舞台の滅びゆく光景を、映画という形で見事に記録した『ジャライノール』。神々しいまでに美しい自然をバックに、上司に隠れて車内で旨そうにビールを飲み交わしたりもするほど仲のよい老機関士と若い相棒との、かけがえのない友情と別れが、ゆったりと描かれる。高橋留美子の『めぞん一刻』が好きだと語る中国の新鋭・チャオ・イエ監督は、言葉では伝わらない大切な想いを、人と人との微妙な距離感や関係性の中に巧みに染みわたらせ、シンプルな物語ながらも、濃密な時間の流れる逸品に仕上げている。

あしたのために・・・その4 痛みを知る
 平凡で単調な日常の綻びに紛れ込んだ異物が、みるみるうちに取り返しのつかない暴力へと肥大する、まるで人生そのものを痛烈にカリカチュア化したかのような地獄絵図を、園子温監督が容赦なくスクリーンに描き出す『冷たい熱帯魚』。生の壮絶な照り返しとしての死に、ある種の崇高さを見出す園監督独特の美学が炸裂し、痛覚がマヒするほどに噴出する血みどろの笑いには、不健全なカタルシスさえ覚える。名バイプレイヤー・でんでんが普段の調子で飄々と怪演する、一見人あたりのいい殺人鬼と、不運な凡人役が妙にハマった吹越満の死んだ魚のような眼は、転落への第一歩はささやかな幸せのすぐ先にあること、その重みは失って初めて気づくということを、残酷なまでに思い知らせるのである。

(映画ライター 服部香穂里)


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