第30回 “七転八倒or起”


 お正月といえど、特に観たい映画もないので、BGM代わりにTVを点けていたらば、『史上空前!!笑いの祭典 ザ・ドリームマッチ09』をやっていた。フィーリングカップル形式で誕生した、一夜限りの組み合わせの妙を楽しむ年始恒例の番組であるが、今年は、松本人志&内村光良のビッグカップルが実現。けったいな刑事を次々と演じ分け、『太陽にほえろ!』ばりの殉職シーンをブラックな笑いに転化させるベテランふたりの、“まだまだ若い者には負けられん!”という気迫に唸ったが、なかでも、“七転び八起き刑事(デカ)”の、10メートルもなさそうな短距離の間に、ひたすら転んでは立ち上がる動作を反復する内村の肉体のいじめ方に、感動すら覚えてしまった。

浮草稼業ゆえに、今の自分が浮いているのか沈んでいるのかさえ判別し難いことも多々あるが、とにかく正しく呼吸し続けてさえいれば何とかなるさ……と、妙に元気づけられたのである。

『ホルテンさんのはじめての冒険』の主人公・ホルテンさんは、ノルウェー鉄道勤務の運転士。日々繰り返される規則正しい業務を地道にこなし、石橋を叩きすぎて壊してしまいそうな慎重派であるが、勤続40年を迎え、定年を翌日に控えたある日、揺らぐはずのない彼の日常は、転がりつつ、新鮮な驚きに満ちたものへと急変する。退職当日に運転するはずだった列車に乗り遅れたのを皮切りに、長年愛用してきたお気に入りのパイプを紛失するわ、プールで脱いだ靴が見当たらずに真っ赤なハイヒールをはく羽目になるわのトラブル続き。しかし、コツコツ歩んできたホルテンさんの一夜のつまずきが、それまでの彼の平穏だが単調な人生に別れを告げ、忘れかけの冒険心をかき立て、まだ遅すぎることはない“第二の人生”へと飛翔するべく、彼の背中を優しく後押しするのである。

 『タイタニック』(97)で悲恋を演じたレオナルド・ディカプリオ&ケイト・ウィンスレットが、久々に再共演した『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』は、別れる運命のふたりが家庭を築いたとて、うまくいくはずがないと実証する、過酷で意味深な逆メロドラマである。夢や野心に満ちた男女であれ、子どもができると親としての責任が生まれ、もはや勝負に出られないプレッシャーが彼らを襲う。『アメリカン・ビューティー』(99)では、現代社会における郊外での暮らしを赤裸々に描写したサム・メンデス監督だが、今回は50年代半ばのアメリカを題材に、閑静な住宅街の片隅で窒息しそうになりながらも、自分らしく生きようともがく若いカップルの、舞台劇さながらの生々しい息づかいを、ありのまま掬い上げていく。監督の実の妻でもあるケイトが力演するヒロインの最後の賭けが、“倒”であるか“起”であるかは、観る者の判断に委ねられている。

 見事に08年度のキネマ旬報ベスト8に選ばれた、感涙必至の傑作『エグザイル/絆』であるが、ともに育ち、絶ち難い絆で結ばれた5人の男たちの熱い友情を恨めしそうに見つめる、人妻の不憫さも印象に残る。妻子のために金を遺すべく、危険な仕事に挑む亭主と、そんな彼を命懸けでサポートする4人は、撃たれても這い上がり、映画史に残るであろう、激烈かつエレガントな銃撃戦を繰り広げるが、その根底には、命を落としてでも大切なものを守り抜かんとする、男特有の“滅びの美学”がある。しかし、乳飲み子を抱えた妻は生き続けなければならず、夫の親友に対しても、ヒステリックに銃をぶっ放すことしかできない。男たちのまぶしすぎる友情の陰で、輪の中に入れぬ女の哀しみが、チクリと痛む。

 一度きりの結婚を“人生最大の失敗”と位置づけ、快楽主義まっしぐらの老教授と、お堅い衣服に身をやつし、天性の美貌を持て余し気味の女学生との、短くも激しく、美しい愛のかたちを永遠にフィルムに刻みつけた『エレジー』。性欲未だ衰えず、彼女を独占したい欲求に駆られた助兵衛な教授主導で進む前半に対し、心のすれ違いから破局に到った後、重大な悩みを抱えて教授に突然電話をかけてくる彼女が牽引する後半では、別離の2年の間に予期せぬ不幸に見舞われたふたりは、より深い愛で結ばれる。失われる運命にある輝かしいボディを、カメラの前で堂々と披露するペネロペ・クルスは、彼女がゴヤのモデルと思しき人物に扮した『裸のマハ』(99)を彷彿とさせる。大切な親友を亡くし、余命に目を向けざるを得なくなった男と、理不尽な運命を受け入れ、きりりと前を見据える女。30歳の年齢差を超えて、むき出しの愛に身を捧げた名優・ベン・キングズレーとペネロペ嬢には、ベスト・カップル賞を贈りたい。

(映画ライター 服部香穂里)


第29回 “おばあ・讃”


 いつの頃からか、おばあちゃんらしいおばあちゃんが少なくなったような気がするが、やはり、「ずっとあなたが好きだった」(92)における野際陽子の登場は、それまでの姑観、ひいては、おばあちゃん観を、覆したように思う。“冬彦さん”に負けじと奮闘する猛母は、あくまで嫁に対抗する形でしか成立し得なかった、従来の姑なる概念をぶち壊し、“もう、おばあちゃんなんて呼ばせない!”とばかりに、女ざかりに年齢制限などないことを、パワフルに体現したのである。

 野際以前の元祖・姑女優である菅井きんが、82歳にして映画初主演を果たした『ぼくのおばあちゃん』では、仕事で忙しいお母さん代わりのおばあちゃんと、彼女に手を焼かせつつものびのび育った孫との親密な間柄が、今や死語となりつつある、懐かしの“おばあちゃんっ子”の在り方を思い起こさせる。たとえば、『西の魔女が死んだ』(08)で、サチ・パーカーが凛々しく演じた“西の魔女”も、傷ついた孫に惜しみない愛を注ぎ、ぎこちない母娘の仲をとりもつ、古風なおばあちゃんではあったが、彼女が実践するファッショナブルなスローライフは、憧れこそすれ、こんなスーパーおばあちゃんは自分にはいないという淋しい現実をも同時に実感させた。それに対し、菅井おばあちゃんの、何とも親しみの湧く素朴な振舞いは、観る者それぞれに、在りし日のおばあちゃんとの記憶を呼び覚ます。アイドル時代も遥か昔、いい感じに歳を食った岡本健一が好演する孫の優しさに、ついつい熱いものが込み上げてくるのは、なりたかった自分の理想像を、彼に重ねてしまうからかもしれない。

 ソ連崩壊前の84年にグルジアで製作された『懺悔』は、母の愛に飢え、歪な育ち方を余儀なくされた不幸を背負う者たちの、回想、幻想、夢想が、めくるめくように複雑に編み込まれた、リアルかつパンクな傑作。信仰心の強い両親を時の権力者・ヴァルラムに殺され、虚しい復讐を画策する娘・ケテヴァンと、母を早くに亡くし、“偉大な”父・ヴァルラムに疑問を抱くこともなく、ただ甘い汁のみを吸い続けてきた息子・アベル。一度は心を通わせ戯れ合ったこともあるふたりの束の間の幸せな幼少時代を起点に、その後の対照的な波乱万丈の人生を露悪的なまでにさらけ出す過程から、かつての恥部に目を逸らさず対峙しようとする作り手たちの真摯さが、悲痛なほど伝わる。壮絶な旅を続けてきたと思しき老婆が決然と言い放つ、重みのある締めの一言は、実際は復讐など何の解決にもならないと認識しているケテヴァンや、神を信じぬゆえに懺悔すべき対象を見失ってしまっているアベルにのみ向けられたものではなく、多くが無宗教を自認する日本人にとっても、他人事では済まされない切実さで、ズシリと響いてくるのである。

 改革の風潮の最中、過去への痛烈な皮肉の中にも自由な未来を希求していた『懺悔』であるが、その後も続く政情不安の代名詞的なチェチェン共和国で撮られた『チェチェンへ アレクサンドラの旅』で、アレクサンドル・ソクーロフ監督の平和への祈りは、世界的なチェリストの故・ロストロポーヴィチ夫人であるガリーナ・ヴィシネフスカヤ扮するアレクサンドラに託される。思えば、昨年、日本でも公開されたドキュメンタリー『ロストロポーヴィチ 人生の祭典』(06)は、商売っ気ムンムンの邦題に反して、知る人ぞ知る名ソプラノ歌手のヴィシネフスカヤに宛てた、ソクーロフからの恋文のような作品であった。セレブにチヤホヤされる夫を、遠いながらも鋭く見つめるヴィシネフスカヤの目には、“まだ、やれる”という強固な自尊心が満ち満ちていたが、それが今回、舞台の真ん中に屹立してきた彼女の華々しいキャリアを彷彿とさせる圧倒的なまでの存在感として、見事にスクリーンに結実。さりげなく髪に手をやる仕草にも80過ぎとは思えぬ色香が漂い、駐屯地の若いロシア兵にも、その外の市場で働くチェチェン人にも、分け隔てなく接するアレクサンドラ?了僂蓮¬軌嫐?弊鐐茲砲茲蠹?个垢觴堝瓜里鬚眤腓蕕?吠颪濆?燹◆判?(ディーバ)”のようであった。

 1年近く、思いつくまま書き殴った駄文にお付き合い頂いた奇特な方々、ありがとうございました。よいお歳を。
(映画ライター 服部香穂里)


第28回 “ミラクル変身!”


 年の瀬ということで、私的なベストテンでも披露してお茶を濁そうかしらん……と、安易な考えも脳裏をよぎったのだが、過去を振り返るよりも、常に動いている映画業界に目を向けるべしと、思い直す。それでも、映画とは、個人の記憶と切っても切り離せないのも事実で、たとえば、今年公開されたウォン・カーウァイ監督のハリウッド進出第1弾『マイ・ブルーベリー・ナイツ』などは、これまで彼の作品を追い続け、『2046』にまで、亡きレスリー・チャンの影を色濃く感じてしまう身としては、スクリーンを見つめながら、"ジュード・ロウは金城武、ノラ・ジョーンズはフェイ・ウォン、レイチェル・ワイズは姐御肌のカリーナ・ラウの役やなあ"なんて自分勝手な妄想キャスティングを、最後までやめることができなかった。

 とはいえ、そんな記憶の蓄積を、気持ちよく裏切るような作品であれば、そこに加味されるある種の意外性が、新たな魅力となる場合もある。

 ある時は、『実録連合赤軍 あさま山荘への道程』の儚く散った女性闘士、またある時は、『ビルと動物園』の三十路を前に人生をささやかにリセットするOLと、本年度"ナナゲイ主演女優賞"を捧げたい活躍ぶりの坂井真紀だが、これまた来年2月にナナゲイ公開予定の『ノン子36歳(家事手伝い)』では、何事にもまったくやる気のないバツイチ出戻り女を、正に等身大に体現している。年下の男の子とのアバンチュールといった筋立ては、『ビル〜』とかぶる部分もあるが、ギリギリ20代と、不惑へとひた走る乙女心の間には、単なる年齢差だけでは測れぬ格段の開きがある。ツッカケ履きで自転車を乱暴にぶっ飛ばし、世捨て人のごとく投げやりに生きるノン子の彼に対する仕打ちには、『ビル〜』のお姉さん的な優しさとはまるで違う、それなりに人生経験豊富な大人の女のズルさ、したたかさ、いやらしさが見え隠れするのだが、それすらも、強靭なバイタリティとしてチャーミングに見せてしまうところに、近年の坂井女史の勢いを感じる。

 ごひいきのジェイソン・ステイサム主演の『バンク・ジョブ』。かつての想い人にそそのかされ、予期せぬトラブルへと巻き込まれてしまうステイサムの、峰不二子に頭の上がらぬルパン三世のごときヘタレっぷりも、なかなかに新鮮ではあるのだが、それ以上に目が釘付けとなってしまったのは、大英帝国勲位をもつ名優・デイヴィッド・スーシェの存在である。名前だけではピンとこない方でも、"ムッシュ、マドモアゼ〜ル"の熊倉一雄の吹き替えで、日本でも親しまれている『名探偵ポワロ』のポワロといえば、納得して頂けるに違いない。灰色の脳細胞で難事件を次々と解決してきた彼が、今回演じるのは、何とポルノの帝王役。いわずと知れた名探偵から、裏社会を牛耳る胆石もちの悪党へと、華麗なる(?)転身を遂げる彼の怪演は、映画ファンのみならず、海外ドラマ・フリークにも必見である。

 セドリック・クラピッシュ監督とロマン・デュリスは、フランソワ・トリュフォーとジャン=ピエール・レオのように、度々コンビを組む中で、ともに進化し、映画界に確かな地位を築き上げてきた。とりわけ、『スパニッシュ・アパートメント』『ロシアン・ドールズ』でデュリスが演じた、いつまでも青春を引きずるモラトリアムなグザヴィエ役には、ふたりの思い入れの強さが溢れていたが、そんな彼らの6度目のコラボレーションとなる最新作『PARIS』では、デュリスは一転、余命を宣告されたダンサーを、実に木目細やかに演じている。よくも悪くも"青さ"の残る作風のクラピッシュが、久々に地元・パリに戻って見せる驚異的な成熟の陰には、すっとこどっこいな大作『ルパン』から、セクシーなオーラを放ちまくった『真夜中のピアニスト』まで、様々な監督の許で鍛錬を重ねてきた、デュリスの成長もあったのだ。"死"を意識した人間の目を通して映し出されるパリの日常は、うっすらとベールをまといながらも、何気ない瞬間すらも慈しむように、ゆったりと時間が流れ、病院へと向かう車内からデュリスが見上げた高い空の青さに、かすかな希望を重ねてみたくなる。

 それぞれのミラクルを、映画で発見してみて下さい。
(映画ライター 服部香穂里)


第27回 “女もつらいよ”


 かの渥美清の十三回忌にあたる今年、ひっきりなしに舞い込む映画人の訃報。ポール・ニューマン、峰岸徹、ギョーム・ドパルデュー、そして、緒形拳まで……。北京オリンピック真っ只中の今年8月、昨年亡くなった作詞家・阿久悠を特集した番組を、NHKのBSにて4時間ぶち抜きで放送していたのだが、曲と曲の合間に、阿久の遺した言葉を、いわば彼の分身のように朗読していたのが、緒形拳であった。同い年で一足先に逝った阿久の想いを、いかなる心持ちで代弁していたのかは知る由もないが、長丁場の最後でズームアップするカメラに向けた、あの独特の愛嬌たっぷりの不敵な微笑みが、未だ忘れられずにいる。

 男性に振り回されたり依存したりするのではなく、自分の脚ですっくと立つ新しい女性像を、様々な歌謡曲の中でいち早く描いてきた阿久悠。たくましさゆえに募る女性の孤独感は、男性と対等に、あるいはそれ以上にタフな働きを要求される現代の女性たちにこそ、一層リアルに響くのかもしれない。

 阿久の快進撃が始まったグループ・サウンズ全盛の60年代末を舞台に、夢を追う若者の栄光と挫折をさわやかに綴った『GSワンダーランド』。ブームの波に乗りつつ、既存のグループにない独自性をと、白タイツに失笑ものの王子様ルックでデビューさせられた4人組、その名もずばり“ザ・タイツメン”の中で、美しい容姿で瞬く間に人気者となったキーボードは、実は女性。今ではガールズバンドも珍しくないが、女にロックは理解できぬという時代に、ソロデビューを目指して、男子に混じり奮闘するヒロインを好演した栗山千明は、泣く子も黙る驚異的キャラを度々演じてきたが、二度と着ることもあるまい不可思議な男の子衣装に身を包む着せ替え人形に徹することで、逆にガーリッシュなキュートさを開花させている。また、対立するバンドのメンバーに、『独立少年合唱団』(00)での変声期を迎える悲劇のボーイソプラノ役が鮮烈だった藤間宇宙が何気なく紛れ込んでいるのも、なかなか意味深なキャスティングではある。

 林遣都&北乃きいの、身体を張った感情表現が胸を打つ『ラブファイト』。根っからの泣き虫坊主と、そんな幼なじみを守るべく幼稚園の頃からケンカの腕を磨いてきた男勝りの美少女。高校に進学しても、逃げ足ばかり速くなる一方の彼は、ヘタレ通しの人生にさよならするためボクシングに打ち込み、好きで嫌い、嫌いで好きな彼女にガチンコ勝負を挑む。『翔んだカップル』(80)の薬師丸ひろ子は、ボクシングに励むクラスメイトの鶴見辰吾の傍らを自転車で並走しながらエールを送っていたが、時代は移ろい、北乃の見事なパンチラ廻し蹴りがトラウマとなった林と、女の子だもん……と涙が出ちゃうのをこらえて実戦を積んできた北乃は、お互いに拳と拳を突き合わせることでしか、先には進めない。『バッテリー』『幸福な食卓』(いずれも07)と、デビュー作にも恵まれた若手同士、じっくり時間をかけて取り組む“映画”の原点を全力で満喫している様子が、スクリーンからも心地よく伝わってくる。

 大林宣彦監督と脚本家の市川森一が、涙なしには観られぬ『異人たちとの夏』(88)以来のタッグを組んだ『その日のまえに』は、今年だけでも『きみの友だち』『青い鳥』と、良質な映画化が相次ぐ幸運な作家・重松清による7つの短篇集の核はそのままに、自由に咀嚼し大胆に肉付けした、食べ応え十分のファンタジー。余命を宣告されたヒロインは、まだまだ幼い息子たちと、今や売れっ子となったイラストレーターの夫を気遣い、“その日”をできるだけ平穏に迎えられるように心を砕く。一家の紅一点の死が、いつしか想い出に変わっても、遺された野郎たちの中で、彼女はいつまでも生き続ける。“異人たち”との交流イコール死を意味した20年前と違い、70歳を迎えた大林監督の、死に対するある種の親近感すら漂う本作は、これまでの大林映画にはない、とびっきりの優しさをたたえている。

 荒廃した炭鉱の村で、肩を寄せ合いひそやかに暮らす三人の親子のたどる運命を、リリカルかつ厳格に見つめた傑作『黒い土の少女』。しっかり者の9歳の少女は、家庭では、炭鉱を解雇され酒浸りとなってしまった父親に代わって健気に家事をこなし、学校では、軽い知的障害をもつ兄のそそうを慣れた手つきで始末してやる。アルプスを駆け回るハイジのごとく天真爛漫な無邪気さと、父親と兄を深い愛で包み込む母性と。女性と少女の間を落ち着きなく彷徨する彼女は、ささやかな幸せが脆くも崩れつつあることに、独り小さな胸を痛めながら、次第に追いつめられていく。卵を産みおとすのが日課の、生命の象徴でもあった鶏を縛り上げ、あまりに悲しい決断を下す少女の、それでもじっと前を見据える瞳の奥で静かに光るものが、あの緒形拳の最後の微笑とともに、網膜にこびりついて離れないのである。
(映画ライター 服部香穂里)


第26回 “ダメ男の花道”


 市川準監督の突然の訃報にショックを受け、とりあえず追悼を……と久々に観たのが、なぜか『会社物語』だった。バブル景気に浮き足立つ80年代後半の東京の風景をヴィヴィッドに切り取りながらも、市川準の視線はその少し先を見据え、夜な夜な都会で繰り広げられるバカ騒ぎにさえも、すぐさま泡と消えるのを予知するかのように、ノスタルジーにも似た哀感を込めたまなざしを向ける。定年を目前にひと花咲かせようともがく主人公を演じたハナ肇をはじめ、もはや多くが故人となったクレージーキャッツの面々に、いわゆる定年を迎えることなく59歳の若さで逝った市川監督までもが加わってしまったようで、偶然チョイスした作品にも関わらず、妙に厳粛な気分になってしまった。

 今年だけでも、王貞治、野茂英雄、朝原宣治、清原和博、小泉純一郎などなど、名だたる男たちが、彼らなりの“らしい”花道を飾ってきたが、そのような瞬間は、誰にでも訪れる。選ばれた人間のごとくキメることはできずとも、それぞれの落とし前のつけ方は、それぞれにドラマティックなはずなのだ。

 盛況のうち幕を閉じたモディリアーニ展にて、落書きまがいの“習作”すらも仰々しく展示されている様子は、まるで『モンパルナスの灯』の強烈なラストシーンの続きのようで、ジェラ−ル・フィリップが居心地悪そうに微笑む姿が、ふと頭をよぎった。その点、既に名をなす『画家と庭師とカンパーニュ』の主人公は、画家としては恵まれているのだろうが、円満な家庭を築けず、描きたくないものまで描くうちに自分本来の絵を見失い、パリから故郷へと舞い戻る。悩める画家の荒れ果てた庭に呼び寄せられるように降り立った庭師は、かつての悪ガキ仲間。旧交を温めるふたりだが、自然に身を委ねて生きてきた庭師は、日々成長する野菜を慈しむとともに、忍び寄る自らの死期をも悟っていく。名もなき庭師の最後の願いが、依頼をなぞるだけの人生に行き詰まっていた画家を再びキャンバスに向わせ、その伸びやかな筆致からは、“名画”にはない素朴な生命力がほとばしっている。

 140分にも及ぶ全篇にわたり、狂おしいほどのエロスをたぎらせながら、時代の波に翻弄される男女の複雑にもつれ合う心の機微を緻密に描き出した『天安門、恋人たち』。身も心も丸裸にして、貪欲に愛を渇望する情熱的なヒロインと、激しさを内に秘めながら、埋めようのない孤独を抱えたその親友。対照的な、それでいて、独特な親愛の絆で結ばれた相当に手強いふたりの女性の間で、ふらふらと揺れ動くひとりの男。ふたりの男とひとりの女という、バランスのとれた典型的な三角関係のパターンが逆転することで、ドラマは悲劇性を深め、意外な方向へと転がり落ちていく。終始受け身だった男の土壇場で選んだ究極の決断は、天安門事件の呪縛から逃れることができずにいた男女の壮絶な10年間に、痛切ながらも清々しい終止符を打つ。

 トホホな邦題からはちょっと想像できぬが、倦怠期を迎えた同棲中のカップルを軸に、ウディ・アレン風のシニカルな哲学が貫かれる『恋愛上手になるために』は、ほろ苦さの残るハートウォーミングな味わいが新鮮だ。男は夢の中で超ゴージャスな理想の女を囲うことに、女は一層仕事に励むことにより、マンネリ化した日常の突破口を見出そうとするが、匙加減の分からぬ不器用な男女ゆえ、ふたりの隔たりは広がるばかり。眠ったままバラ色の夢に生きるか、苦楽をともにしてきた恋人とヨリを戻し、茨の道を突き進むか。優柔不断男の渾身のプロポーズは、よそ見しがちだった彼女を引き留めるのに十二分な効果を発揮するが、遠くから淋しげな視線を送る“夢の女”への絶ち難い心残りは、夢とうつつとの間を行き交う彼を、否応なく眠りの国へといざなうのだ。

 観る度に見晴らしが異なる万華鏡のような作品を、ゆったりと丹念に撮り重ねてきた稀有な作家・ホ・ジノ。彼の最新作『ハピネス』もまた、残酷でナイーヴ、繊細で大胆な、一筋縄ではいかない魅力に、ざわざわと胸がかき乱される。いつ死ぬとも知れない重病と静かに闘う天涯孤独の薄幸な女と、都会の片隅で気の向くまま遊び倒した末に肝硬変となったヤクザな男。出逢うはずもないふたりが、田舎の療養施設という異空間に閉じ込められ、急速に惹かれ合うが、彼女にとっては最後の、破滅的に生きてきた彼にはある意味最初とも言える純粋な恋の炎は、外界の空気に触れた途端、幻と消えてしまう。失うことで気づく幸福の重みを一歩一歩踏みしめるかのように、今一度、生き直そうと決めたダメ男のゴールは、まだまだ遠い……。 (映画ライター 服部香穂里)


第25回 “どこでもドアなんかいらない!”


 大ケガを負い身動きがとれなくなった甘いマスクのスタントマンと、アイスランドが生んだ歌姫・ビョークをぶちゃむくれにした風のキュートな恐るべき5歳の少女が、想像の世界を奔放に飛び回る『落下の王国』。青年が半ばヤケクソ気味に少女に語って聴かせる物語は、いつしかふたりの共作となり、遂には彼らの現実にも影響を及ぼし始める。自殺願望に囚われた青年の妄想と、世界遺産を含む数々の超開放的なロケーションとのあまりのギャップに目を奪われるうちに、病的で不思議な魅力がじわじわクセになってくる。

 扉を開ければ、そこは別世界。映画の中では、空間移動に留まらず、時間だって自由に往き来することができるが、その振れ幅に応じて、浮かび上がる様相は、実に様々である。

 エリザベスと名乗る女性が、“ベティ”と呼ばれていた10歳の頃へと思いを馳せる『ベティの小さな秘密』。親友のように仲がよかったのに寄宿学校に行ってしまった姉、諍いが絶えず離婚寸前の両親らに絶望したベティは、精神病院から脱走した青年と、安楽死を待つばかりの黒い犬と孤独感を分かち合いながら、出口の見えない逃避行へと旅立つ。お供を引き連れ、真っ赤なコートで完全武装したベティの強張った小さな背中には、少女から大人へと移行する過程で得るものと引き換えに、重大な何かが失われるのを全身で阻止しようと努める、いじらしい意志が宿る。孤軍奮闘する少女をねぎらうような包容力と、遠い過去の傷口のうずきにも似た痛みが同居する鮮烈なラストシーンは、汚れちまった大人たちに、忘れ難い余韻を残す。

 香港ノワールの雄・ジョニー・トー×恋愛映画というミスマッチが、複雑かつ濃厚な香りを漂わせる『僕は君のために蝶になる』。結ばれたのも束の間、ささいなケンカによる事故で大切な男性を亡くしたヒロインは、大学卒業後も、癒えない喪失感や罪悪感と格闘していたが、事故から3年後、ダークスーツに身を包んだ彼が、突然彼女の前に姿を現す。生への執着を隠しもせず、亡霊にしては妙にくっきりとした輪郭をもつ彼との“再会”は、決してロマンティックなものではなかったが、実現しなかった過去、あり得たかもしれない未来、彼岸の淵などをともに見て回るうちに、皮肉ながらも、あの頃よりもお互いを深く愛するようになる。忘れたかったはずの数々の瞬間が、かけがえのない想い出に変わる時、ふたりの旅は既に終わりを迎えようとしている。

 一方、韓国の鬼才・イ・ミョンセ監督&カン・ドンウォン主演の『デュエリスト』(05)コンビが放つ、ミステリー・タッチの傑作メロドラマ『M』では、主人公のベストセラー作家の初恋の相手は、心の準備もできぬままに、忘却の彼方へと葬り去られつつある。現実と幻想、過去と未来が親しげに浸透し合う、イ・ミョンセ監督独特の映像美が炸裂する世界観の中で、幾重にも巧妙に張りめぐらされた数々の謎は、神経衰弱ぎりぎりの主人公の甘苦い記憶を呼び覚まし、彼が陥っていた暗く長いスランプのトンネルの先には、かすかな光明が射し込む。短くも熱烈な一生分の恋は、インスピレーションを取り戻した作家の手により、読者の記憶の中に永遠に刻まれていく。

 今年で96歳を迎えた新藤兼人監督は、小学校時代の恩師にオマージュを捧げながら、自らのしょっぱい恋愛体験や修行時代を惜しみなく吐露し、ますます若々しさを増す快作『石内尋常高等小学校 花は散れども』を撮り上げた。自伝的要素の色濃い念願の監督デビュー作『愛妻物語』(51)では、妻の愛に支えられながらも、脚本家としてなかなか芽の出ない下積み時代の自身の姿を、見るからに哀感漂う宇野重吉に投影していたが、半世紀以上の月日が流れた最新作では、買った苦労も身につかなそうな豊川悦司が、ひょろりとスレンダーな体躯を存分に活かし、新藤監督の分身を飄々と演じている。数えきれない苦難や心残りでさえも、膨大な時間の中で発酵を繰り返すことで、現在の名匠を形成する上で欠かせない滋養として、生き生きと映し出される妙味。この達観したかのような境地は、波乱万丈の映画人生を闘い抜いてきた者だけが獲得できる、ひとつの到達点なのだろう。

 夏休みも終わり、ドラえもんいらずの贅沢な時空旅行を、ゆったりとお楽しみ下さい。
(映画ライター 服部香穂里)


第24回 “自虐のススメ”


 北野武監督の最新作『アキレスと亀』の、あまりに優しい結末を観届けながら、初期の北野作品を特徴づけていたヒリヒリするような“痛み”が、妙に恋しくなってしまった。自身をとことんまで追いつめ、傷つけることからのみ生まれる、あの頃の自虐的な爽快感が……。

 57年のアメリカ映画の傑作を、名匠・ニキータ・ミハルコフが、様々な矛盾をはらむ現在のロシアを舞台に大胆にリメイクした『12人の怒れる男』。17歳の少年が起こしたとされる殺人事件の、不確かな証言や証拠の信憑性を問い直すことで、新たな事実が浮上していくサスペンス劇の趣が強かったオリジナルとは一線を画し、多様なバックボーンをもつ12人の陪審員ひとりひとりの一筋縄ではいかない人間ドラマとして、興味をそそる巧みな構成である。固有の名前の代わりに番号を与えられた陪審員たちは、その場限りの関係の気安さからか、秘めてきた過去の恥部やトラウマなどを口々に吐露し始め、議論は逸脱を繰り返した末に、意外な結末へと導かれる。不当な裁判にかけられたチェチェンの少年の心象風景を随所に散りばめ、ユーモアと緊迫感が入り乱れる濃密な2時間40分は、裁く側と裁かれる側との垣根を取っ払い、人間なるものの不可思議さ、それゆえの面白さを、存分に堪能させてくれる。

 憧れの大スター・マドンナのような女性になる日を夢見る男子高校生が、大会の賞金目当てにシルム(韓国相撲)部に入部するという、一見ゲテモノ、その実、すこぶる繊細な愛すべき青春映画『ヨコヅナ・マドンナ』。むっちり系の肉体とは裏腹に、ハートは乙女な彼は、はちきれんばかりのチャイナドレスに身を包み、鏡の前でポーズをとりつつ“マギー・チャンに似てない?”などと、まんざらでもなさそうな様子。それと同時に、念願の性転換手術を受けたとしても、ブサイクな女性になるに違いない自分の未来が決してバラ色ではないことも、十分すぎるほど理解しているところが何とも切ないのだが、人知れず化粧の練習に励み、自身のコンプレックスと常に向き合いながら、それでも夢の実現のために奮闘するポッチャリ君のひたむきな姿は、美女顔負けの輝きを放つ。

 29歳。一流企業に勤めるOL。上司と不倫中だが、関係は停滞気味。自宅マンションで、ひとり酒をちびちび楽しむ、少々痛い趣味あり。動物にたとえると、“テン”。
 21歳。ビルの窓拭きバイトで学費を稼ぐ、ヴァイオリン専攻の音大生。卒業を目前に控えるが、先行き不透明な将来からは目を背けがち。動物にたとえると、“キリン”。
 そんな、何ら共通点のなさそうな男女の彷徨する心模様を、やわらかいトーンで瑞々しくスケッチした『ビルと動物園』。不釣合いなふたりは、雰囲気ゼロの居酒屋にて、成り行き任せの初デートと相成るのだが、生ビールで軽く喉を潤した彼女は、2杯目にして早くも、ぬる燗をオーダーする暴挙に出る。男性として見ることができない年の離れた坊やに対し、偽らざるテンの素顔をご披露して反応を探るという、それなりに場数を踏んできた年増女の、ちょっぴり悲しい悪戯であるのだが、虚をつかれて一瞬たじろいだ彼の、咄嗟に見せる健気な“ええ奴”っぷりには、チョイ悪なお姉さんならずも思わず頬がゆるみ、この純朴な青年が好きになってしまう。何気ないシーンではあるものの、細やかなやり取りの積み重ねが、全く場違いなシチュエーションをも、恋の予感で満たし得る奇跡が、ここにはある。

 映画とは、痛みと紙一重のキワドイ瞬間にこそ、カタルシスが宿るものである……なんてね。
(映画ライター 服部香穂里)


第23回 “たかがピアノ、されどピアノ”


 街中から、ピアノの音色が失われて久しい。20年ほど前までは、ピアノは子供のお稽古ごとの定番で、あちこちの家庭から、練習に励む子供たちの成果が漏れ聴こえてきたものだった。限りなく騒音に近いものからプロ顔負けの名演まで、ひとつひとつの響きには“私は、ここにいる”という主張があり、その背景に、人となりのようなものすら感じることができた。何気ないピアノの音が、人と人との関係を築いたり、心に平安をもたらしたり。無音の住宅街は、殺伐とした現代社会の縮図である。

『言えない秘密』は、台湾のトップスター・ジェイ・チョウの鮮烈な監督デビュー作であり、彼自身も得意とするピアノが、全篇に散りばめられた様々な“秘密”を解明する上で、非常に重要なキーとなっている。時にメローに、時に超絶技巧的なダイナミックさで奏でられる多彩なピアノの音色が、不思議な運命の糸で結ばれた男女を翻弄し、幾多の障害や誤解によって引き裂かれていくふたりの愛を、奇跡的に繋ぎ止める。取り壊しを目前に控えた校舎という、過去と未来が曖昧に溶け合った雰囲気あるロケーションが、驚愕のクライマックスを迎えるファンタジーの絶好の舞台として、強引なまでの説得力を放つ。

 『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』は、アルベール・ラモリス監督の珠玉の名作『赤い風船』(56)にオマージュを捧げながらも、ホウ・シャオシェン流のひねりを幾重にも利かせたユニークな逸品。少年と赤い風船が常に寄り添うオリジナルに対し、こちらは、手が届きそうなのに届かず、すれ違いを続ける彼らの、ある種のメロドラマといえるかもしれない。少年の家庭環境はなかなかに複雑で、別居中の父親や異父姉の存在が、パリのあちらこちらで幻影のように浮かんでは消え、人形劇師の母親は、発表会前のストレスや日々の雑事で、情緒不安定気味である。そんな一家の歴史を静かに見守ってきたのが、母子の住むアパートで、長い間調律されずじまいだったピアノ。盲目の調律師がよみがえらせる本来の音色は、心身ともに傷だらけの母親と、その傍らで少なからず心を痛めてきた少年の心を、優しく解きほぐしていく。

 黒沢清監督の『トウキョウソナタ』は、大人のダメダメな部分を洞察し抜く“恐るべき子供たち”に、袋小路に陥る世界情勢の行く末を託そうとする、いわば、同じく黒沢監督が撮った『アカルイミライ』(03)のジュニア版といった趣の傑作である。開巻間もなく突然リストラされる父親、主婦業にそれなりの生きがいを見出しながらも、ここではないどこかを夢想しがちな母親、バイトに明け暮れ、ほとんど自宅に寄りつかない大学生の長男。そして、そんな秘密と嘘で塗り固められた崩壊寸前の家族を、かすかに照らす一筋の光となるのが、両親に内緒でピアノを習っていた天才肌な小六の次男が紡ぎ出す、繊細なドビュッシーの調べ。これまでも、一筋縄ではいかないホラーやスリラーなどのフィルモグラフィーの中で、現代社会の裂け目に潜む病や絶望をとことんまで見据えてきた黒沢監督だからこそ到達し得る、あまりにもささやかだが、確かな手応えのある希望。黒沢映画史上最高の幸福感に包まれる本作は、鬼才の新展開をも頼もしく予感させる。

 暑い夏。弾き手を失い放ったらかしのピアノの、不平不満に耳を傾け、久々に鍵盤に指をすべらせたくなる。そんな作品だ。
(映画ライター 服部香穂里)


第22回 “アンチ・エイジング”の憂鬱


 団塊の世代が定年を迎え、TVの視聴者の年齢層がアップしたあたりからだろうか。美容、健康、保険関連のCMが、やたらと目につくようになった。なかでも、美容CMが高らかに宣言するコンセプトが“アンチ・エイジング”。一般人(自称)が、10歳は若く見られるんですよ……と自慢げに語りかける、アレである。

 しかし、寄る年波に抵抗しながら若さにすがりつくことは、果たして幸福なのか? ありのままに時間に身を委ねて生きていくことができない者たちの、癒えようのない憂鬱に触れるにつけ、そんな疑問が頭をよぎる。

 『グーグーだって猫である』は、『金髪の草原』(99)に続き、犬童一心監督が、大島弓子の漫画に果敢に挑んだ。『金髪〜』では、自分を学生だと思い込んでいる重病の老人を、デビュー間もない伊勢谷友介が瑞々しく演じたが、老人の実像を敢えて登場させないことにより、精神と肉体とのバランスを失った主人公の痛みが一層伝わる佳篇である。大島自身をモデルにした『グーグー〜』のヒロインは、長年ともに暮らした愛猫・サバを亡くして悲嘆にくれる。別れの言葉も告げられずに天に召されたサバは、再び主人公の前に現れるが、なぜか少女の姿をしている。人間の数倍の速さで年をとる猫は、楽々と飼い主の年齢を追い越し、その短い生涯を一気に駆け抜けてしまうが、いくつになってもペットは我が子のように可愛いもの。大人びた口調に似合わぬ外見で語らうサバは、世の飼い主たち共通の密かな願望の表れなのかもしれない。

 押井守監督の『スカイ・クロラ』では、思春期に差しかかると成長をやめてしまう“キルドレ”のストイックな日常が、淡々と丹念に積み重ねられていく。彼らは、平和のありがたみを大衆に再認識させる“ショーとしての戦争”を行うべく空へと駆り出され、そこで犠牲とならない限り、年をとらぬまま生き永らえる宿命を背負っている。単調で退屈な毎日の繰り返しの隙間に、ほころびを見つけると、男女は孤独を紛らすかのごとく、“年相応に”激しく求め合う。空中で完全燃焼するか、生きる代償として子どもであり続けるか。押井監督は、究極の選択に縛られたキルドレの在り方に、生きる実感を得られず窮屈な日々をやり過ごす現代の若者たちを重ね、それでもなお、世界は無限の可能性に満ちていると、静かに訴えかける。

「ダークナイト」は、バットマン最大の敵・ジョーカーを怪演した直後、不慮の死を遂げたヒース・レジャーの遺作となったことで、より注目度が高まった因縁の作品。このタイトルは、悪がはびこるゴッサム・シティーの秩序を守りつつも、表向きは市民の憎まれ役を自ら買って出るバットマンに与えられた称号を指す。とはいえ、使命感に燃える敏腕検事の心の闇につけ込み正義の脆さを露呈させ、社会とは白黒で割り切れないグレーゾーンであると証明してしまったジョーカーこそが、“ダークナイト”と呼ぶにふさわしく思えてくる。白く塗りたくった顔に、醜く裂けた赤い口。世のあらゆる邪悪なものを見透かすような鋭さに、雨に打たれた子犬のごとき哀しみをたたえた瞳。過剰なメイクが却って、“蒸発願望”を秘めたヒースのナイーヴな本質を際立たせ、28歳の若さで散った命を、スクリーンの中に永遠に刻みつける。役にすべてを捧げたかのような、恐ろしいほどの狂気とともに。
(映画ライター 服部香穂里)


第21回 魂の伴侶


 8月にはファン待望の映画版も公開される『SEX AND THE CITY』。俳優陣が着こなす華麗で個性的なファッションや、偽らざる女心を赤裸々にぶちまけたキレ味鋭い会話などに加え、NYでそれなりの地位も名誉も手に入れた4人のキャリアウーマンが、孤独と向き合いながらも“魂の伴侶”を貪欲に捜し求めていく姿が、世の多くの女性(+一部の男性)のハートをわし掴みにした要因だろう。クオリティの高さを維持し続けた全6シーズンの中でも、異性ではなく彼女たち自身がお互いの魂の伴侶なのではないかとの結論に到る回は、印象深いエピソードのひとつである。

 そう長くもない人生において、果たして魂の伴侶へとたどり着けるのか否かは定かではないが、そんな出逢いをしみじみと噛みしめる3本。

 『きみの友だち』では、恋愛を優先する友人に傷つけられる者、急速に遠い存在になっていく優秀な幼なじみの背中を見守るしかない者、恋心を素直に告白できないひねくれ者など、それぞれの人物の想いが微妙にすれ違っていく。その中で、事故で脚に障害をもつ少女と病弱な少女という、ある欠落を抱えたアウトサイダー同士の友情だけは、何があっても揺らぐことはない。特別に言葉を交わしたり、優しさを繕ってみせたりする代わりに、大切な時にはいつもそばにいるふたりの固い絆は、その存在が消えてしまった後も、永遠に続いていく。今の日本映画界で、大人の女性を描ける数少ない監督のひとりである廣木隆一は、瑞々しい佳篇『4TEEN』に次ぎ、青春映画にも強いことを証明した。

 ロシアの国民的人形劇『チェブラーシカ』では、“友だち募集”の貼り紙が、孤独なワニと、世にも不思議で愛らしい“チェブラーシカ”とを結びつける。仲良しな彼らの間に割って入り、意地悪ばあさんが何かとちょっかいを出すのだが、案外さびしがり屋な彼女、お人好しなコンビが窮地に陥る度に、年齢にそぐわぬ機敏な身のこなしで、見事に救い出す。人間とワニ、そして、動物園からも拒否されてしまう正体不明な生きもの。てんでバラバラな3つの魂が、列車の上で肩を寄せ合う時、ほのぼのとした温かさとともに、結局はみんなひとりぼっちであるという寂寥感が漂う。

 56年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールに輝いた、アルベール・ラモリス監督の『赤い風船』の主人公・パスカル少年の“友だち”は、人間でも生きものですらなく、ふわふわと宙を舞う真っ赤な風船。学校へ行く時も、街をお散歩する時も、ひもから手を離そうが、少年の母親が窓から放り出してしまおうが、いつも大好きな少年の傍らに寄り添っている。ふたりの仲を快く思わない悪ガキどもの激しい攻撃にも屈せぬ風船がもたらす、もの哀しくも美しい究極のラストシーンは、製作から半世紀以上の時を経た現代においても、少しも色褪せることなく胸の奥にじんわりと染みわたる。

 風船を相棒に、パリの路地という路地を小回り利かせて駆け抜けたキュートなパスカル少年は、ラモリス監督の実子でもあり、監督自身は、この後70年に48歳の若さで急逝していることを考えると、この36分の中篇への愛着は一層募る。ホウ・シャオシェンは、『赤い風船』とラモリス監督へのオマージュに、『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』を撮り上げ、07年のカンヌでも話題を集めた(ナナゲイでも公開予定)。単なるリメイクばやりの昨今であるが、小津安二郎をリスペクトした『珈琲時光』でも、独特の世界観を打ち出した鬼才だけに、その仕上がりに興味津々である。
(映画ライター 服部香穂里)


第20回 “砂時計”的人生観


 「過去が未来になったよ」。

公開中の『砂時計』の超自己チューなヒロインは、砂時計をひっくり返しながら、そうつぶやく。過去に囚われず未来へ歩き出そうという前向きな台詞であるが、癒えない過去の傷が、未来に浸透してくる状況を想定すれば、一転してネガティブな色を帯びてくる。

『休暇』の主人公の刑務官は、幼い息子を抱えたシングルマザーとの結婚を目前に控えながらも、関係はぎこちないまま。そこに、ある死刑の執行命令が下り、その“支え役”を自ら志願して得た1週間の休暇を3人で過ごすことで、ようやく家族らしくなる。支え役とは、いわば切腹の介錯のような役回りで、死にまつわる“儀式”が滞りなく遂行されるための、責任重大な任務。死刑囚の絶命する瞬間を全身で受け止めた感触は、新たに幸福を築き上げていく過程でも、事あるごとにフラッシュバックされて消えることはない。甘い未来と苦い過去とが表裏一体となった“休暇”とは、何とも意味深なタイトルである。

『譜めくりの女』の売れっ子ピアニストの心ない行為は、ある少女の未来を奪い、後々に大きなしっぺ返しとなって、彼女自身に降りかかる。譜めくりとは、完全な裏方でありながらも、演奏の出来を大いに左右する、ピアニストにとって生命線というべき存在である。かつての少女が譜めくりとなり、今や自信喪失気味のピアニストの未来をじわじわと脅かしていく恐怖と、そんな復讐を重ねても、輝ける未来をあきらめた彼女の心の闇は永遠に晴れることのない悲しみが、ざらついた余韻となって痛覚を鈍く刺激する。

『アウェイ・フロム・ハー 君を想う』では、夫よりも遥かに年下の妻がアルツハイマー病を患う運命の理不尽さが、全篇に影をおとす。教え子と浮気した前科をもつ夫は、そんな過去の罪を、今になって妻が糾弾しているような錯覚にさえ陥る。施設に入った妻の介護にあたる看護婦は、見舞いに来た夫に、「“悪くない人生だった”と振り返るのは、いつも男」と語るが、この指摘は、夫の死までは律義に尽くす妻の自己犠牲的な面に加え、夫から解放された後の“第2の人生”も謳歌してしまう女性のタフさをも暗示する。しかし、そんな自然の摂理があべこべになってしまった夫婦ー“悪くない”はずだった人生の続きをさらに生きなければならぬ夫と、第2の人生を閉鎖的な空間で送ることになった妻が出す究極の選択は、あまりにも切ない。現実と幻想、正気と狂気、人妻と恋する乙女との間をさまようジュリー・クリスティの“グレー”な演技が、作品に奥行きを与えている。

過去は、忘れた頃に姿を変えて、未来に襲いかかってくる。砂時計を逆さまにするように、恐ろしいほどあっけなく……。(映画ライター 服部香穂里)


第19回 “R-18(成人指定)”の作品を立て続けに観て、漠然と感じたこと。


 『美しすぎる母』は、貧しい家庭に育ちながらも、その美貌で大富豪のハートを射止めて結婚し、後に愛する息子に殺されてしまう実在の女性を描いた衝撃作。確かに“母親殺し”というテーマ自体はセンセーショナルではあるものの、性描写は観る者の想像力に訴えかける形で、そこまで露骨なものではない。しかし、波乱万丈の人生を送った悲劇のヒロインに扮したジュリアン・ムーアの、エキセントリックな中にも少女のような脆さを潜ませる妖艶な怪演が、それを補って余りあるエロエロなムードを醸し出してしまっている。いわば“R-18”とは、彼女の何事も恐れぬ女優魂に贈られた勲章でもあるのだ。

 『裏切りの闇で眠れ』は、フレンチ・ノワールの王道を行く作品で、裏切り者に対する容赦ない拷問シーンなどの描写は、相当に残酷ではある。しかし、元来は義理人情を重んじてきたはずの日本人には納得できる範囲であり、一匹狼を自認する腕利きの殺し屋・ブノワ・マジメルを軸とした、『椿三十郎』のハードボイルド版といった趣もある。血の赤が強調されずに済んでいたモノクロの時代から続く伝統的なジャンル映画の暴力性が、装い新たに甦り、女神のような『やわらかい手』からは一転、マリアンヌ・フェイスフルが死神の囁きのごとく熱唱するエンディング・テーマが、裏切りの代償の重さをヒリヒリと痛感させる。

 とはいえ、裏を返せば18歳以上なら誰でも観られるという成人指定は、作品にとっての表現の自由が確保されている証でもあるわけで、となれば、作品自体とは関係のないところで、見えない圧力により上映を中止する劇場が相次いでいる不幸な傑作『靖国』についても言及せずにはいられない。観客の眼に触れることで初めて完結する映画の存在意義を、根底から覆す世の趨勢に反して、予定通り上映することに決めた我らがナナゲイの英断を、心より支持したい。静かで、すこぶる熱いこのドキュメンタリーは、ひとりでも多くの観客によるジャッジを受ける権利があるはずなのだから。(服部香穂里)


第18回 『トゥヤーの結婚』&『魔法にかけられて』


 結婚願望はないが、自分にふさわしい相手は必ずどこかに存在するはずと、根拠のない信念を抱いている世の女性は、案外多いのではないだろうか。
 事故によって下半身不随になった夫に代わり、一家の大黒柱としてふたりの子供を養う『トゥヤーの結婚』のトゥヤーと、いつかめぐり逢うに違いない運命の人との永遠の愛を固く信じる『魔法にかけられて』のジゼル。まるで月とすっぽんのようにも見えるが、ともに結婚を神聖なものと捉える純粋さを胸に秘め、それゆえに、その理想と現実との狭間で揺れ動く、極めて誠実でリアルなヒロインたちである。
 トゥヤーは、障害を負った夫の面倒も一緒にみてくれる太っ腹な再婚相手を探し、おとぎの国で一目で恋におちたジゼルは、迷い込んだNYの街で、彼が迎えに来るのを待つことにするが、現実とはなかなか厳しいもの。たったひとつの再婚条件は、一家の長を気取る男たちには屈辱的な難関として重く立ちはだかり、超素敵に見えたイケメンは、知れば知るほど、おマヌケなナルシストに過ぎなかったのだから。
 女房に逃げられたばかりの気のいい飲んだくれも、ペシミストなバツイチの子持ちも、夢見る乙女たちが思い描いてきた王子様像からは程遠いかもしれない。しかし、一瞬で解けてしまう恋の魔法にはない、新しい家族をともに築き上げるという半永久的な幸福を、彼らはもたらしてくれる。夢の終わりと新たな始まりを予感させる、少々ほろ苦くも温かな余韻に包まれる佳篇である。(服部香穂里)


第17回 『ジプシー・キャラバン』


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昨年の9月、来日、来阪していたタラフドゥハイドゥークスのライブを観に行った。ステージの手前左側、蓋の開いたケースに入れられたバイオリンに目と心を奪われた。
『ジプシーキャラバン』の中にはタラフをはじめ、各々のバンド、ミュージシャン達の音楽家としての一面、そしてロマという民族としての一面がふんだんに盛り込まれている。迫害の歴史の中から生まれ文化に育った彼らの、感じざるを得ない生活感が、血生臭くただよっていた。
彼等から出される芸術性に富んだ素晴らしい演奏は、芸術的創造物ではなく、労働、金儲けなのか。日本人中流家庭に育った一般的な脳を持つわたしたちには考え難いことなのだが、この映画を見る限り、事実そうなのである。ロマというだけで後ろ指をさされる民族。しかし誇り高く、その民族としての音楽をまっとうし、他国からも大いに受け入れられる。本当に素晴らしいこれも、紛れもない事実なのである。
わたしはジプシーを知ったきっかけが彼等の音楽だったので、その他の歴史的背景など無知であった。故にジプシーに憧れや敬意さえ抱く。民族の違いというのはこういうことをいうのだろう。
しかしロマ自身も、重なる差別により「ロマ」と「ガッジョ」などと区別してしまい、差別を受ける人間特有の自意識過剰な部分がかなり表面化しているではないか。このことを見る限り、カヤの外のわたしが言う資格など無いのだが、互いが友好的に交わる日はおよそ遠いのではないだろうか。
日本では彼等へのそのような差別は無いに等しく、近年ジプシー音楽も徐々に知名度を上げてきている。タラフらも、「また来た」ぐらいに来日を重ね、その都度素晴らしいステージで我々にため息をもたらす。これは我々日本人とロマにとって、非常に良い循環なのではなかろうか。タラフもまた、来日を重ねる毎に着ているもののグレードが上がっているそうだ。
労働が芸術を兼ねているだなんて、日本人には到底できたことではない。
「世界中から差別よ無くなれ」などということは、願っても叶うことは無いに等しいだろうが、差別を忘れることは望めるのではなかろうか。彼等の魂の叫びを聞き、私たちも魂で感じることにより、明日にも差別を忘れるだろう。
50年後も、100年後も、タラフドゥハイドゥークスが、ロマのロマとしての誇りが、途絶えることなく続きますよう。(山口幸子)


第16回 『裸の夏 The Naked Summer』


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麿赤兒率いる、舞踏集団「大駱駝鑑」の夏合宿を追ったドキュメンタリー。
ただ、ただ密着し臨場感を醸し出すのみのドキュメンタリーではなく、随所にちりばめられた「麿赤兒の仕事」、これがまた浮世離れした、素晴らしく美しい輝きを放つ。 まるで舞踊という仮面を被った悪魔のような出で立ちで。
合宿を通し、参加者が麿の渦に呑まれ、最終的に金粉をまとう。
己の魂と肉体のみを信じ及ぶ行為。 しかし皆、本当に楽しげに、映像の中の人々の表情が、生きている。 見ているこちらまでもが間違って今年の夏合宿に参加を志願してしまいそうになるのだ。
現場は、巷のお粗末な宗教よりもおよそしっかりとした信仰心を備えているに違いない 合宿がすすみ、舞踏作品が出来上がるに連れ、最初はある意味で宗教団体の教祖のように見えていた麿が、何故だ、段々と煙草という指揮棒を振るオーケストラの指揮者に見えてきたのだ
それはまるで、地獄の底は天国と繋がっている、と体言していた。
麿赤兒、見るからにおどろおどろしい感じがする。
しかし、この映画を観て麿赤兒と言う名前をひとつの単語とした時、印象がこう変化する。
「薔薇」という漢字は複雑な漢字ではあるが、その言葉の意味が先に記憶に居座っているが故、綺麗に感じる。わたしは「麿赤兒」にそれと似た感触を覚えた(山口幸子)


第15回 『ミスターロンリー』


ハーモニー・コリンの8年振りの新作が公開された。
わたしはハーモニー・コリンが8年振りに映画をつくったと言うことよりも先ず、前作の「ジュリアン」から8年もの歳月が流れていたことに驚いた。
そのお久しぶりのリターンズムービーは、まるで処女作のような初々しさをまとった「ミスターロンリー」。
キャスト、マイケル・ジャクソン、マリリン・モンロー。、のそっくりさん。
なのだが実際のキャスティングも目が回るものがあるのだ。 レオス・カラックスにドニ・ラヴァン(年取ったなぁ…)、ヘルツォークまで出てくる始末。
物語は(コリンいわく)世界一の有名人マイケル・ジャクソンがマリリン・モンローに恋をし、人としてのアップダウンを経験した末、長年の自分なりの『人生』にピリオドを打つまでのお話。知らず知らず流れていく時間の中で、まるであの世とこの世が交錯する、息のつまるあの瞬間。
夢のようなおとぎ話はもはや夢では終わらなかった。
コリンは前作以降、精神的にふさぎ込んでいたそうだが、しかしこの今作「ミスターロンリー」は、決して(精神的に)病んだことのある人の作品ではなく、今尚病んでいる人間の作り出した世界のように感じた。

なにかが、暗い。
ふっきれた芸術性などよりも、未だなおひきずった闇と病みが止むなく垣間見えたのである。
新しい妻も劇中登場するが、どうにもクロエ・セヴィニーを思い出しては我がことのように悔やむわたしは、実はわたし自身が病み上がりきれていないのだろうか。
過去の作品の「コリンらしさ」の薄暗い部分だけが今作にも影をおとしていた。
だがしかし、ハーモニーコリンがノアの箱船に乗りかかっているには違いない気は、確かにした。(山口幸子)


第14回 『実録・連合赤軍〜あさま山荘への道程〜』


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 連合赤軍のメンバーたちが、一人、また一人と粛清されていく姿を食い入るように見つめながら、ふと頭をよぎったのが、クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』である。
 イーストウッド監督は、暗い穴蔵の中で自決に追い込まれていく若き日本軍の兵士たちを、驚くべき冷静さでフィルムに焼きつけた。そこには、二部作の第一部『父親たちの星条旗』に流れていた同国人としてのシンパシーのようなものがない分、命の灯があっけなく消え去る瞬間が“ありのまま”刻まれており、言葉にできない日本兵の無念ささえも、ひしひしと伝わってくるようであった。
 若松孝二監督は、本作の舞台となる激動の時代を、意欲的な傑作を次々と世に送り出すことで、革命に燃える学生たちとともに疾走し続けた。弟分、妹分に対する個人的な想いも強かったに相違なく、たとえば、総括を迫る指導部を悪役に、理不尽に奪われていった命を情感たっぷりに描く選択肢もあったはずである。しかし、あくまで“実録”にこだわる若松監督は、死にゆく者の陰で、自らの保身に走る上層部の醜さや、NOと言えぬ異様な空気に飲み込まれる意気地なしの脆さをも、時に目を背けたくなるリアルさで、容赦なく浮き彫りにする。そして、そんな冷徹なまでに客観的なカメラは、40年近く経ても衝撃冷めやらぬ事実の重さ、粛清されていった同志それぞれの命の尊さを鮮明に捉えることで、その当時どうすることもできなかった若松監督自身の張り裂けそうな胸の内をも、代弁しているように思われた。
 未だ気概溢れる巨匠渾身の力で甦る、志半ばで道を絶たれた闘士たちの儚い青春模様は、漠然と日々を浪費しがちなイマドキの若者にも、ガツンと響いてくるに違いない。(映画ライター 服部香穂里)


第13回 『シアトリカル 唐十郎と劇団唐組の記録』


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 唐十郎の劇団唐組におよそ100分間同行した。
 平均年齢30歳。人間として良き個性を自覚しきった年代の、言わば色とりどりの劇団員をみるみる唐色に染めていく唐十郎を見、ゾッとした。唐は重役にはその人の個性を尊重し、「当て書き」をするのだそうだ。若手はその「当て書き」に憧れ日々修業をし、ベテラン勢はその演技力を不動のものとすまいと日々修業する。彼等はまるで唐組の修業僧と言われることも。
 この世界では唐が白と言えば団員も白、黒と言えば団員も皆黒と言うのだ。団員らの揺るぎない演劇愛をしかと見せ付けられた。劇団唐組には、演劇をする者の集う演劇の世界以上のものがあり、これはいち社会のように思う
。彼等には、ここが統べてなのであり、ここで始まった彼等の役者人生は、おそらくここに終わるのだろう。エンケンの不滅の男で脳をたたき起こされるまで完全に見入った世界で唐十郎という伝説を学んだ。
 しかし伝説は一度起こるから伝説なのであって、二度三度と起こるとそれはたちまち伝説ではなくなる。誰かが言ってて、以来持論となった言葉がある。「◯◯みたいになりたい、と思った時点でその◯◯にはなれないのだ」
 わたしはこれにハッとさせられ、長年の夢にピリオドを打った。(山口幸子)


第12回 『眠り姫』


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 最近ではもはや、昨日の晩御飯が思い出せない状態にあり、例えば他人との会話の上でも「あれ?これは夢の話をしているのか」などと言うことが、恥ずかしながら多々ある。
 映像にして綺麗な類いの夢は普段から見ず、日常の延長のような大したことのないリアリティに溢れた夢だけをよくみるので、夢と現実が混同してしまうこともまた多々ある。
 ある時、手について気になり、色々とあることないこと妄想にふけり、そのまま寝てしまったので夢の中でも妄想してしまった。
 この匿名希望のドキュメンタリーのような作品にこもった、 匿名希望の他人の温度は、何だかとてつもなく心地がよかった。
 映像と声の世界で死ぬ人の、ことの重大さには独特の湿っぽさのようなものが入っておらず、また涙が無くテンションも一定していることにより、映画としての揺るぎない世界を、ひそかに確立していたように思う。
 ラスト、エンドロールで振り出しに戻されたような感覚で、眠りの世界から目が覚めた。(山口幸子)


第11回 「おそいひと」


 始めに一言添えておくと、『おそいひと』は『遅い』人ではなく『襲い』人なのだそうだ。
脳性麻痺で車椅子生活、言葉も話せない障害者による殺人事件。 何ともセンセーショナルな題材でもって挑んだ柴田剛監督の最新作。
目の悪いわたしは新しい眼鏡を新調する勢いで、構えて期待にざわつく胸を抑えながらこの作品を鑑賞するに及んだ。
モノクロームの殺人鬼は、想像を上回る狂気をまとい、画面に現れた。 ザラついた質感を確実なものにするかのようにworlds end girlfriendの切なくも荒々しいノイズが飛び交う。映像作品としては類をみない飛び抜けたものに思う。それぞれの登場人物の喜怒哀楽も、画面から飛び出してまるで近くに感じ取れた。
しかし何だろうかこの観終えた後の倦怠感と言うか何と言うのか … 投げられっぱなしのメッセージは、残念ながらこちらでは汲み取ることができなかった。
度々繰り返される住田さんの殺人は、言いにくいのだが、いつしかストレスにさえ感じられ、ドラマのようなラストには溜息を漏らす結果になってしまった。
終わりがけ、モノクロ画面がカラー画面に変わった時、閉じかかっていたわたしの 瞳孔が全開になるほどに開いた。
しかし物語はそのまま事なき終えた。
この作品にはもっとドキドキさせられるハズだった。 醜いだけの快楽的殺人ではなく、たくましくも筋のある殺人を見せ付けられ、魅せつけられる予定が狂ってしまった。
余談だが、私が生活のため働く飲食店にお客さんで来る人が出演していたので動揺してしまった。その演技にも、音楽にも、甘さが感じられなかったので、なるほど砂糖を抜くと甘さも無くなるわけだ。
と勝手に駄洒落の如く納得をして全ては終わった。
自己処理すべき独り言なのだろうが、もはや映画と現実の未来は明るくない。
呼吸を止めよ、手を差し伸べるな。 Highになるなら廃になれ。
わたしたちは、このままの現状に満足すべきなのだろうか。 恐らくもう、純粋でないのだから純粋にはなれないのだろう。
ああ、映画に振り回されたい。
(山口幸子)


第10回 「化石生活の柄のうた(仮)」


 すこし前に、大ヒットした『タカダワタル的』という映画があった。 高田渡を撮ったドキュメンタリー映画で、高田渡というひとが良く出ていたと思う。
わたしが高田渡を知ったのは、父から貰ったレコード『系図』がきっかけだったっけ。虜になって聴き、ライブがあったら多少遠くとも熱心に通っていたような。
そんなある日、わたしが愛して止まない京都の兄弟デュオ キセルが高田渡の『鮪に鰯』をカヴァーしているのを聴いた。キセルが高田渡の曲をすることは決して不思議なことでも何でもなく、寧ろ自然の流れに感じた。オリジナルの『鮪に鰯』もそりゃあ高田節炸裂、気の抜けるそれなのだが、ひとたびキセルの手にかかるとこれまた辻村節炸裂、気の抜けるそれ、なのだった。
「キセルは若いのに覇気が無い」とは生前に高田渡氏が口にした名言で、今でも度々キセルのライブ等でよく耳にする。確かに覇気など微塵も無く、不要な若さなども感じない。真っ直ぐに真っ直ぐで、その真っ直ぐな彼等の音楽は、新しくもなく、古くもなく、常にわたしたちにスッと浸透し、だから抜けることもない。
再三ここで書き続けている気がするが、わたしは現代がいけすかない。 街には見上げるのも面倒な高層ビルが立ち並び、車から排気ガスが出るようにビルからも大気中に有毒なものが蔓延する。何事も便利が不便なご時世になったもんだ。
 そんな中、時折都会において運良く立ち退きから逃れてきたかのような背景をも匂わせる古民家を見つけると、体の中があったかくなり、にんまりしながら、例えばもう二度とそこを通らなくとも、その小さな傾いた家が一瞬でも大事な気持ちに、愛おしい気持ちになってしまう
 わたしの生きている年数を数えると、もはや平成が昭和を上回ってしまった。しかし今は無き昭和こそが輝かしく、後ろばかり振り返っているわたしにとって、こう言ったちょっとした昭和の面影はどうしても無くてはならないのだ。そしてキセルも、都会の雑踏に紛れながらもしっかりと聳え立つ昭和の名残のようなものに思う。後ろ向きなわたしがこの世で唯一、前を向きながら楽しめる娯楽なのである。
 「死ぬまでに5万枚くらい売れたらなぁと思ってます」と、兄弟の兄が何とも言えぬコメントを添え、来年頭に新譜が出ることをライブで告げた。あと30年もすりゃ、人々により支持され、高田渡よろしく映画になってもおかしくない彼等に、7年掛かりで夢中になっているのだった。
 情景の浮かぶ音楽、音楽が鳴り出すサイレント映画。どちらも独り占めにしてしまいたい宝物に値する。聞きこぼすことのないように、見落とすことのないように … 久し振りに生きていてよかったと自信を持って実感を得た気がした。(山口幸子)


第9回 「14歳」


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 日本映画界で今、最も自由に、鋭い感性を発揮して創作活動を行っている若手映像ユニットと言えば、廣末哲万と高橋泉のコンビによる「群青いろ」だ。廣末の監督・主演、高橋の脚本による劇場デビュー作は、不作だった2007年の邦画の中で、まさしく白眉。各映画賞でベストテンに推されることだろう。

 ビデオ作品ながら高い評価を受けた前作「ある朝スウプは」と同様、今回も低予算のインディーズ映画ゆえに、今年5月に東京で封切られて以降、全国の単館系の劇場で順次、細々と上映を続けている。シネコン中心の興行形式では極めて陽が当たりにくいだけに、大阪での上映となると、やはりナナゲイが頼り。17日から待望の公開の運びとなったことを喜びたい。

 『14歳』。タイトルからまず、今の日本社会でたびたびマスコミの関心事となる子供たちの物語を想像する。確かに、幾人かの屈折した14歳が登場するが、廣末と高橋は紋切り型の図式を離れ、自分が14歳の時に体験した<痛み>を引きずったまま20歳代になった、2人の男女を主人公に据えた。

 
 中学校時代に教師を彫刻刀で刺した女子生徒、深津(並木愛枝)と、現場で彼女を止められなかった同級生の杉野(廣末)。大人になった2人は、今の14歳たちを昔の自分を映す鏡のように見つめ、かかわっていく。深津は、わざわざ中学教師の道を選び、生徒たちのいじめの渦に身をさらす自虐的なやり方で。杉野は深津と逆に、徹底的にサディスティックな方法で。

 そうして、心の奥に閉じ込めていた<痛み>が再び噴きだした時、深津も杉野も、自分が今も14歳たちと同じ衝動を抱えて生きていることを思い知る。理由なく誰かを、何かを傷つけずにはいられない現代人の衝動。それが『14歳』の本質ではないのか。だからこそ、2人が子供たちと痛みを分かち合おうとするラストに、優しさと希望が感じられるのだ。

 廣末と並木の、抑制された中に一触即発のマグマをためた演技がすばらしい。そして、廣末の演技に惚れこんでいる香川照之が、深津の先輩教師役で出演。『14歳』がわからず、混乱に陥っていくさまをすさまじい緊張感で見せ、子供たちとも、主人公2人とも相容れない孤立感を際立たせる。

 この映画に、何も感じなくなった大人は幸せだろう。だが、ヒリヒリする<痛み>を感じられる大人のほうが、もっと幸せだ。少なくとも私はそう思う。(村尾 潤子)


第8回 「ボーン・アルティメイタム」


 昨日、『ボーン・アイデンティティー』、『ボーン・スプレマシー』と続くシリーズ最新作『ボーン・アルティメイタム』の初日のレイトショーに駆けつけました。最近、シリーズ物で私が唯一追いかけているシリーズです。
 TOHOシネマズ梅田の450席がほぼ満席の状態で、シリーズ愛好者としては嬉しい限りです。

 そして作品の出来はと言うと、シリーズ中の最高傑作であると同時に、最近のアクション映画ではすこぶる上出来の部類に入るでしょう。

 スパイの暗殺者ものというジャンルに入る作品だけに、3作品ともそうですが、物語の舞台として世界各国の都市が登場します。本作では、モスクワ、パリ、ロンドン、マドリッド、タンジール、そしてニューヨークと物語の舞台が目まぐるしく変わります。
 そこで繰り広げられる主人公ジェームズ・ボーンとCIAとの死闘は、手に汗握るアクションの連続です。主人公を演じるマット・デイモン自身がほとんどのアクションシーンを演じているのですが、私の大好きなスティーブ・マックイーンを彷彿とさせるほどです。
 彼らの死闘は、携帯電話とネットという最新機器を駆使して行われるのですが、そこで演じられるアクションは街の人込みの喧騒の中を走る、建物の屋上から屋上へ飛び移るなど生身の肉体の跳梁です。

 そのアクションは、それぞれの都市を映し出す緩やかな空撮による水平運動から始まり、街の喧騒の中での疾走(人と人、カーチェイス)、建物の屋上から隣の建物への跳躍という超人的な水平運動に移り、建物から転落という垂直運動で終焉を迎える。その小気味良い運動のリズムが続きます。あたかも登場人物たちは転落という垂直運動を目指すかのように息を咳って建物を駆け上ります。
 そして、それらの運動を手持ちカメラが同じく息を咳って追いかける様は、ドキュメンタリータッチという殻に収まらない破天荒ぶりです。

 この作品のラストが、屋上からの主人公の落下、その後の緩やかな水中での遊泳運動に移って行くのは何か次の物語を暗示させます(本作が完結編ですが・・・)。

 マット・デイモンの身体的演技の素晴らしさは当然ですが、脇を固める役者陣も曲者ぞろいで魅力たっぷりです。
 特にCIAマドリッド支局員ニッキー(ジュリア・スタイルズ)とボーンが出会い、妙なラブシーンに展開しないのも好感が持てますね(昨今のハリウッドのアクション映画の水増し的なラブシーンには正直、うんざりしているので)

 ドキュメンタリ?映画出身のポール・グリーングラス監督の名は、アクション映画の歴史に輝かしい名を刻みつけたと思います。彼の『ユナイテッド93』も見なくては・・・・。(支配人 松村)


第7回 「追悼のざわめき」


うっかりしていた。 『追悼のざわめき』を観てしまった。 後味は最悪だったが余韻は最高だった。 あれを観たことにより、まんまとこの世の中を見る目が肥えてしまった。 あの映画は下衆ではない。むしろこの世の中が下衆なのだ。、という現実にハッとした。 欲望と邪念で満ち溢れた無駄だらけのこの世の中とは裏腹に、ある意味で無垢で純粋に「必要なもの」だけを求め生きる登場人物と、これらをつくりだしたあの映画の作り手達。 わたしはあの映画を観てからというものの、より現実に吐き気を覚えた。血の味さえするほどに。
『追悼のざわめき』は、機械化されたこの世の人間に麻痺しかかったわたしを救ってくれた。
わたしの中で、『追悼のざわめき』が始まってしまった。
ちょうど1年前に、わたしはわたしの中に宿った新しい命を放棄してしまった。 あの頃のわたしは触れることの無い未来を現実に置き換え、悩み悩んで苦悩の日々にあった。 欠陥だらけに思えたあの男に求めていたものは…? もしあの時あの現実を受け止めることができたなら…? わたしの判断は正しかったのだろうか…? わたしは何から逃げ出したかったのだろう…?
暴力から生まれるものはやはり無かったのだろうか…? 或はそれを見出だせなかったのだろうか…?
わたしには力不足だったのだ。 あのような下衆を操る力が俄然欠けていた。
人間には生まれてきた目的があっていいように思う。 例えば鈴木いづみが阿部薫と出逢うために生まれてきたように。 離婚し、後に自殺こそしたが、彼女は人生を謳歌したように思う(彼女と一面識も無いただの第三者の意見でしか無いが)。
わたし自身にもこういった「生まれてきた理由」のようなものがあるとすれば、
異常性愛やドス黒い犯罪が明るみに出だしただけのこの腐りきった世の中が、『追悼のざわめき』に追いつけるわけなどない。 この映画の中に描かれている世界は、そんなヴィジュアルショック的な安っぽいものではない。 もっと真っ直ぐで、一切の邪念を取り払った、唯一無二の、我々の理想の世界を描いた映画なのだ。
しかし理想は理想で終わる他無い。
わたしはこの映画と出合えて本当に幸せだ。 そして、この世に映画という表現方法があったことに心から感謝した。
これを観ずして、危うくわたしは社会でベルトコンベアに乗り、終着のゴミ溜めまで流されて行くところだった。
知らないということは、本当に恐ろしい。(山口幸子)


第6回 「明るい瞳」


それでも時間は刻一刻と、ある一定の呼吸を保ちながら流れていく−…『孤独』が取り巻く空気感。
一人ぼっち、ではなく独りぼっち、なのだった。 他人と、家族と一緒に居るのに独りの気分。 細い細い糸に、やっとの思いで踏ん張って捕まっていたこの手を離してしまえたら…
やがてくる独りではないという感覚。 しかしこれこそが、幸せなどではない。 全編を覆うどこか心地の良い切なさ。 年齢的なものもあるにせよ、心より体が先に繋がる現代、この世の中で、精神の住処を見つけ出すふたりを、きれいごとに捉らえられずしてここまできれいに描けた奇跡。 わたしを取り巻く不安が消えた。 けれどもそして、時間は流れ、流れゆく。(山口幸子)


第5回 「キムチを売る女」


絶対的なまでのひとりの女の孤独と男たちの不純な欲望、そして息子の死が交錯し、悲劇的な、かつ監督の言葉を借りれば「テロリズム」として感動のクライマックスで昇華される。

彼らの存在の曖昧さ。母と息子の境遇の曖昧さ。妻がいながらも婚約者がいながらも女との間に曖昧に欲望を果たす男たち。男たちの全裸の姿がその醜さを曝け出す。

絶えず、1枚の絵画のように捉えられた画面中央に四角に区切られた空間を設定し、その絶対と曖昧の境界を彼らは行きかう。

音響は一切の映画音楽を廃し、ワンシーンワンカットを多用し、決定的瞬間は絶えず観客の目に触れさせない。純粋映画の道を突き進む。ツァイ・ミィンリャン、ジャー・ジャンクに匹敵する新たな才能の誕生である。

(支配人 松村)


第4回 「赤色エレジー」


人生という長い映画の中で、わたしと言うこの小さくも無意味なコマは、完全に踊らされていた。
幸福とは何なのか、不幸とは何なのか。
完全に見失ったわたしは『不幸よりマシ』なものを幸福だと位置づけた。
その幸福はあまりにも平凡で、ぼんやりしている。
もはや自我そのものが薄れつつあるわたしのその自我は、無に等しく近づきながらも悪あがいていた。
恐らくもう「あの前」には戻れない。
日々「あの時」の悲しさが涙となりわたしを襲う。
山口幸子は実在しない。
幸子の幸は、どこにある ?
いっそ明日がこなけりゃいいと?

(山口幸子)


第3回


戦争世代の何たることか。 わたしは現代に生きる若者の一員だが、ひと昔前、いわゆる団塊の世代の青春時代に憧れて止まない。そして、それを団塊の世代に伝えると、彼等は彼等でその上の世代、戦争経験者の世代に憧れるそうだ。
私が団塊の世代に憧れたのは、映画の中で見た60年代・70年代にある。今、現代にあるにわかに新しい文化
や芸術、ファッションなどはおよそこの時代からの請け負いで、今、どれほど新しいことをしようとも、「素晴らしい、まるで◯◯のようだ」、と結局は二番煎じな評価を受けるに終わる。
しかし、わたしが思っていた団塊の世代とは何だ。 この生々しいまでの戦争経験者の生き様に比べれば、ただの自己満足主義、もっと言ってしまうとエゴのか
たまりにしか見えてならない。 その時代の象徴である学生運動でさえも、わたしの中で雲ゆきが怪しくなってきた。
世代や時代を比較しても始まらないし、結局は戦争だって過去の一大事、62年の月日が経った今、どうこう
しようと言っても私たちはただ、毛穴のひとつひとつに緊張を感じながらその事実を受け止めるしかできやしない。
映画「ひめゆり」を観ることにより、わたしは膨大な空虚感に襲われ、非力な自分と無力な世の中にただガ
ク然とした。
この映画のつくり手側からすれば、ガク然としたところでそれは意図したところではないだろうが、重すぎ
るのである。苦しい。わたしには、この事実を現実として受け止めることだけで精一杯だった。 戦争により負った傷や、心に留まる何かもない私は、悲しいかな恐らくこの映画により明日からの生活が何か変わることもないだろう。ただ、世界規模ではなく自分という個人規模で、このお話を聞けたという事実は非情に大きい。
「生き残ったからには、天国に行く時に沢山の幸せをお土産にもっていく」と本編にあった。 命の重み、尊さを実体験ではなく、第三者の言葉により思い知った。 わたしはその昔、同じ学校の好きな男の子とお話がしたかった。しかし奥手で普通じゃ無理。そこで、あろ
うことか「天災か、それか戦争にでもなって避難場所で一緒になれたら…」などと、阿呆なことを本気で考えていた。今思い出しても恥ずかしい。
月並ではあるが、戦争の醜さ、失ったもの

(山口幸子)


第2回


映画館で映画を観た後、劇場を後にしながら登場していた人物を「持ち帰って」しまうことがある。わかりやすく言えば、やくざ映画を観終えて、さながら自分自身がやくざになったつもりで街(現実)に繰り出してしまうのだ。『感情移入』なんて甘っちょろいもんではなく、あくまで持ち帰って、なりきってしまうのだ。
8月5日、日曜日。 外に出るともう空は暗く、ネオン街と化したその街には、半ばギラギラしたエネルギーのようなものがみなぎっていた。
一応説明させていただくと、この日、私はナナゲイで、田中登監督の『(秘)色情めす市場』という映画と、20余年の月日を経て、出合うべくして出合い、その主人公『トメ』と出逢ってしまったのである。
先ほどまで椅子に腰掛け、スクリーンをただ一点に見つめていた『私』は、確かに『トメ』になっていた。 体こそ売り歩いたことはないものの、事実過去に『私』はどこか『トメ』だったのである。それが現在の私が、『トメ』と出逢い、まるで思い出に浸るかのように『トメ』になってしまったのである。
舞台は大阪の釜ヶ崎。 先ず私は、この町に深い思い入れがあった。 『物乞い』と『労働者』の区別がつかぬ時分から、この町の気取らず 、古き良きを当たり前に使い古した処が大好きになり、遊びに通うようになり、行きつけの店をつくり、友人をつくり、数年前にはこの少し先に位置する場所に居を構えた。「危ないところに住んでるのねぇ」と言われることも多くあったが、あの辺りの者は皆、己の明日のことで頭がいっぱいで、他人のことなどどうでもよいのだ。だから暮らしていた間に危ない目に遭ったことなど一度も無い。
私は現代が生けすかない。 しかしこの町には現代のいやらしさがまだ追い付いてきておらず、私の憧れる昔のままなのである。 その上この映画で『トメ』の居る釜ヶ崎は、1970年代なのだ。 輝かしく眩しい時代の最後の光が、モノクロ映画の中に見えた。
これは私の偏見でしかないのかもしれないが、昔に比べて今の性や愛には汚らしさが随分と付き纏う。 この2007年の猛暑の中、『純愛』なんぞをうたっても、それは嘘や理想のかたまりで、おおよそ処女の小学生ぐらいにしかウケないであろう(今の時代の若年層はいろんな経験が早いっていうし。まぁ処女を失ったからといって『純』でないとは一概にはいえないけれど)。
私にとって、この『(秘)色情めす市場』という映画は、ある種の純愛映画なのである。純愛とて、恋愛ばかりが純愛ではない。 『トメ』は娼婦でこそあるが、そこに他人の温もりや、誤解の上に成立する愛情を求めるようなセコさ、歪んだ情けなどは一切無く、『トメ』は『生きて』いるのだ。 そして『私』も『生きて』いたのだ。
『トメ』のように他人に殴られ、釜ヶ崎を泣き叫びながら走り回ったこともあった。 『トメ』のように見知らぬ人に話し掛け、言い表し難い、どこかこう、くすぐったい気持ちにさせられ、ワンピースこそ着ていなかったが、クルクル廻りはしゃいだこともあったものだ。
痛すぎて涙もでないような絶望感、温かくて涙が止まらないような幸福感。 これらが押し付けがましくなく、ひっそりと感じられた映画だった。
このどちらかが欠けても駄目なのだ。 美味しいものばかり食べ続け、それがいつしか不味く感じる、のとはワケが違うのである。
『トメ』よ、『私』よ、強くあれ。 どうせ、明日には明日がき、明後日には明後日がくるのだけれど。

(山口幸子)


第1回


「映画は第七の藝術だ」とはR・カニュードの言葉であり、第七藝術劇場の劇場名の由来でもあります。
世に芸術は数あれど、映画ほど五感をフルに用いて無限大に感じられる芸術なんて、他にないように思いませんか。そして近年、映画が『商品化』してゆく中、この第七藝術劇場はあくまでも映画を『作品』として扱い、上映するその作品ひとつひとつをとてもとても大切に大切に扱っているように思います。
私事で恐縮です。 生まれて初めて好きだと思った映画監督は石井輝男とジャック・タチ、ジョン・カサヴェテス。


好きな女優は緑魔子と横山リエ。 60年代、70年代を知らぬままに生き進むが故に、どうしてもこの時代に憧れて止まない。 「夢は夢のままで終わらせて」しまおうか迷っている夢は、文筆家。 思考を自分のものにしてしまいたい人は、鈴木いづみとみうらじゅん。 無駄の無い人間の生活に憧れるも、日々無駄だらけ。 みうら氏の言うところの『ゆるキャラ』ではないけれど、私自身が『ぬるキャラ』(ぬるま湯に浸かった…)な気がします。
そんな(どんな ??)私も、人生で2度目の映画出演作が、この夏クランクインします。
偶然にも監督はナナゲイの会員さん。 不思議な縁ってあるものですね。
この枠ではこんな『ぬるキャラ』な私が、観た映画・触れた映画・感じた映画を完全に素人の目線であばき、もの申します。
産まれ立ての赤子が、やっとのことでハイハイするまでを見守るように、温かい眼で見守っていただけましたら幸いです。

(山口幸子)



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