第156回 "がんと生きる 言葉の処方箋"


 順天堂大学医学部の樋野興夫教授が提唱した、"がん哲学外来"。聞き慣れないけれど妙に気になる、現在進行形で発展する新領域の、通常の医療とは異なるユニークな可能性に光を当てるドキュメンタリーが、『がんと生きる 言葉の処方箋』である。

 幾多の生と死を見つめ続けてきた達観したまなざしに、何者にも警戒心を与えぬ柔らかな物腰で、胸に刻みたい至言・名言を囁きかける一方、綾小路きみまろばりの地に脚ついたユーモアセンスで、様々な病状に悩むひとをも笑顔にしてしまう。そんな樋野教授の懐深い人間力が、手術や投薬治療に頼りがちな医学界に、ささやかな一石を投じる。

 彼の理念は、がん患者たちが率直に語り合える場を提供する"メディカル・カフェ"なる試みで、各地にも広がりを見せている。長野県松本市で、ヘルパー業に励み幼稚園児のひとり息子を育てるシングルマザーは、訪問先の闊達な老婦人らに人生を学びつつ乳がんと前向きに対峙し、月に一度のカフェを手探りで運営している。そんな中、東京で妻子と暮らす働き盛りの息子が、がん告知を受けたという女性が現れる。何かしてやりたいのに何もできない無力感を切々と吐露する彼女の胸中は、幼い子の母で健在な両親の愛娘でもあるカフェの主催者や他の参加者の心にもリアルに響く。語り明かされる想いを受け止め、ともに涙を流し、分かち合えれば、それぞれが抱える何かも、少しだけ軽くなる。樋野語録のひとつ"解決はできなくても、解消はできる"が実証される劇的瞬間を目の当たりにし、熱いものが込み上げてくる。

誰にとっても切実で深刻な題材であるものの、一日一日を真摯に生きるひとたちの凛々しい表情や、百薬の長たり得る言葉のもつ力に、自ずと鼓舞される佳篇であった。

(映画ライター 服部香穂里)


第155回 "生と死をみつめて"


 インドネシア×西部劇×女性主人公という、"混ぜるな、危険!"的な異色の掛け合わせが奏功し、東京フィルメックス最優秀作品賞など、各国の映画賞を席巻した『マルリナの明日』。息子と夫を相次ぎ亡くし、荒野に佇む一軒家にひとりで暮らすマルリナは、女性に敬意を払おうともしない強盗団の下っ端らを毒入りスープで一気に片づけ、レイプしようと襲いかかってきたボスの首を剣ナタではねる。外から丸見えの生首をお守り代わりにぶら下げ、自首するべく警察に向かうマルリナだが、難を逃れた残党の執拗な追跡に遭う。フェルメールの絵画の題材にでもなりそうな、光と影のコントラストが美しい静謐な屋敷内で、いかにも不釣り合いな惨劇が繰り広げられるが、そのすべてを黙々と見守り続けるのが、グロテスクさを超越して厳粛な神々しさすら漂う、夫のミイラ。暴力に暴力で抵抗を試みても虚しさばかりが募る、哀しき殺人者の張り裂けそうな胸中を、ただならぬ存在感の"彼"が、代弁してくれているかのようだ。運悪く道中でマルリナと出逢ってしまう、見て見ぬふりできないお人好しな妊婦の友人と育み合うバディ感が、凄惨な物語のその先に、かすかなカタルシスをもたらしている。

 最愛の母の死から立ち直れず、投げやりに青春を浪費する女子大生が、なぜか決まって謎の覆面人物に殺害される、悲劇の誕生日を繰り返すタイムループにはまり込んでしまう『ハッピー・デス・デイ』。いつも最悪の寝覚めを迎える部屋の主の好青年に後押しされ、彼女の人徳のなさを象徴するギュウギュウ詰めの"容疑者"リストを手当たり次第にあたるも、バラエティ豊かな最期を遂げる度に健康状態まで悪化し、タイムリミットが刻一刻と迫る。いかにもお高く留まったイケイケの姉ちゃんが、"死ぬ気になれば、何でもできる"と開き直り、自身の残酷すぎる運命や刹那的快楽に溺れる荒んだ日常と向き合ううちに、見失いかけていた本来の自分をも取り戻していく。そんな成長を通して観る者の共感や好感度を急激に獲得しなければならない難役を、見事なコメディエンヌっぷりを発揮するジェシカ・ロースが好演。多彩なジャンル映画の要素を貪欲にぶち込んだ、規格外のホラーの快作をパワフルに牽引し、日本では連続公開される2年後に製作された続篇では、さらに繊細な演技で涙すらも誘う、今後の活躍に期待大の注目株だ。

 スティーヴ・マックィーン&ダスティン・ホフマン主演の73年の映画版も今なお愛され続ける、終身刑囚として壮絶な日々を生き抜いたアンリ・シャリエールの実体験に基づく原作を、半世紀近くの時を経て再映画化した『パピヨン』。殺人の濡れ衣を着せられた屈強な金庫破りが、通貨偽造で終身刑を喰らった虚弱な囚人と手を組み、醜悪な裏切りや打算が渦巻く生き地獄のごとき徒刑場で、真の自由を希求し脱獄を企てる。TV界での活躍に比べ、映画界ではあと一歩ブレイクしきれずにいたチャーリー・ハナムが、時折マックィーンかと見まがうカリスマ性と粗削りな親しみやすさとを両立させ、前作との比較を余儀なくされるリスキーな企画をモノにし、代表作とした。対する相棒役の、『ボヘミアン・ラプソディ』(18)を驚異の大ヒットへと導いた立役者ラミ・マレックは、本作でも万人の母性本能をくすぐるマスコット的な愛くるしさを遺憾なく発揮。ついつい世話を焼きたくなる魔性の疫病神と、そんな彼に魅入られた兄貴分との波乱万丈の友情物語として、オリジナル版とは一味違う、爽快な余韻の娯楽作に仕上がっている。

 英国代表として出場した76年の五輪では金メダルに輝いた、卓越したフィギュアスケーター兼アーティストでありながら、自らのセクシュアリティや自己破壊的な気質とも格闘し続けたジョン・カリー。44年の短くも濃密な生涯を駆け抜けた不世出の存在に、数々の証言や、貴重な書簡や史料映像も交えて、様々な角度から光を当てる『氷上の王、ジョン・カリー』。男性的な動きが求められる当時のフィギュア界の風潮に対して、独特の美学を貫くカリーは、幼少より憧れ続けたバレエの要素なども取り入れ、フィギュアスケートをスポーツから儚くも美しい瞬間的な芸術へと革新。オフレコの発言をマスコミに暴露され、同性愛者であることが世間に知れわたっても、競技者人生に終止符を打ち、気鋭の振付師と練り上げた独創的なプログラムを引っ提げ、自ら主宰するカンパニーとアイスショーを公演し世界中を魅了する。仲間たちがHIVで次々と倒れ、自身にも死の気配が忍び寄る中、心身をすり減らしてでも、躍動する生のきらめきをエネルギッシュかつエレガントな作品群に昇華させた孤高の天才の勇姿を、記憶に鮮烈に刻みつけるドキュメンタリーの佳篇だ。

(映画ライター 服部香穂里)


第154回 "いくつになっても"


 推定年齢13、4歳のおばあちゃん黒猫だけれど、名前は"チビ"の突然の失踪が、長年連れ添ったある夫婦やその周囲へと投げかける波紋を、丹念な描写を重ねて映し出す『初恋〜お父さん、チビがいなくなりました』。相思相愛で一緒になったはずなのに、気づけば結婚50年目にして最大の危機に直面する熟年カップル役に、松竹の倍賞千恵子、日活の藤竜也という、往年の映画スターの夢の共演が実現。自然に歳を重ねることの素晴らしさや切なさを、さりげなくも説得力溢れる佇まいで体現し、充実のキャリアに新たな1ページを加える。さらに、かつて東宝のスターで本作が遺作となった星由里子が、夫婦仲を良くも悪くも引っかき回すキーパーソン役で華を添え、長き女優人生を素敵に締めくくる。昭和の男を地で行く寡黙で頑固な亭主関白の夫を、内助の功で献身的に支えてきた賢妻も、ときめきを失いたくはないし、時には大切な想いを言葉にして伝えて欲しい。出世作となった『とらばいゆ』(02)を彷彿とさせる、末娘役の市川実日子の久方ぶりの将棋姿も懐かしい、贅沢で行き届いたキャスティングの妙も嬉しい豊かな味わいの逸品である。

 退屈な日常に漠たる不安を抱く大学生4人組が、実際に起こした珍妙な事件の顛末を、モデルとなった張本人たちをも登場させ、ユニークな趣向を凝らして綴る『アメリカン・アニマルズ』。大学図書館収蔵の時価12億円相当のお宝をゲットするべく、かなりベタな犯罪映画などをお手本に、誰も絶対に傷つけたくないズブの素人集団が練り上げた犯行計画。たとえば『台風クラブ』(85)の鬱屈した青春を送る中学生にとっての"台風"のような、日々の風向きを変え得るきっかけに"強盗"を選択してしまう、恐ろしいほど大胆なのか単に幼稚で間抜けなのか判別できないイマドキの大学生の思考回路に、とまどいを通り越して驚愕を覚える。時に涙を浮かべながらもカメラ目線で饒舌に語る、演者以上に芝居がかって見えたりもする当人(+α)の姿を目の当たりにするにつけ、世間的には恵まれた部類に属する前途ある若者が、とてつもない代償を払ってまで手に入れたかったものとは何だったのか疑問が渦巻き、共感も理解もし得ない彼らが抱えるどす黒い闇の深さが、重苦しい余韻をもたらす衝撃作だ。

 ひとり息子の自分を溺愛するシングルマザーを"クールな親友"と崇め、母とのマンツーマンの自宅学習を最良と信じきっていた天才少年が、高卒認定試験会場で見かけた義足の美女にひと目惚れしたのを機に、少々遅めの反抗期に目覚める姿を軽妙に描く『リアム16歳、はじめての学校』。個性派コメディエンヌにして演技派でもあるジュディ・グリアが、"痛い女"に陥る寸前すれすれの絶妙のバランスを保ちつつ、自身の苦い過去から学び培った、いささか調子っぱずれな信念に従い邁進する猛母を巧演。何かと複雑な危険や誘惑まみれの世間から我が子を守るべく大奮闘するも、驚きと発見の連続の公立校での新生活を目を輝かせてエンジョイする愛息を横目に、子離れできず置いてきぼりを喰らう親心の寂しさをもリアルに覗かせる。思い当たるフシをぐいぐい突いてくる泣き笑いを誘う鋭敏なユーモアのみならず、ややこしくも愛おしい親子関係の普遍性を考察するデリケートな思慮深さに満ちた、カナダ発の青春映画の快作だ。

 今は亡きロビン・ウィリアムズが熱望したとされる実在の漫画家の半生の映画化を、親交の深かったガス・ヴァン・サント監督がその遺志を継ぎ、ホアキン・フェニックスに白羽の矢を立て実現させた『ドント・ウォーリー』。生後間もなく母に捨てられ、酒に溺れる破綻しきった日々の末に事故に遭い、車椅子生活を余儀なくされた皮肉屋ジョン・キャラハン。そんな彼が、天性のユーモアセンスを発揮し風刺漫画家として再生していく軌跡が、破天荒で自虐的な振る舞いに繊細さを秘めたジョンに惹かれ、様々に影響を及ぼす個性豊かな面々との関わり合いを通し、時間を行き来しつつスケッチされる。変幻自在な演技で魅了したロビンの大きすぎる穴を埋める可能性を感じさせる、名コメディアンでもあるジョナ・ヒルやジャック・ブラックが、いつにも増して陰影に富む表情で新境地を開き、打てば打つほど響き進化するホアキンを強力にサポート。ジョンやロビンが亡くなった後も、志ある映画人が大切につないできたリレーは、人生どん底であれ、憎しみや絶望に逃げずに向き合うことの意義をポジティブに伝え、観る者ひとりひとりの心にも、ささやかな愛や希望を届けてくれるに違いない。

(映画ライター 服部香穂里)


第153回 "春やのに…"


 松田優作の死で始まった平成が、ショーケンこと萩原健一の死で、終わりを迎えようとしている。それにしても、新元号をエイプリルフールに発表するだなんて、この先も不穏な予感しかしないのだけれど……。

 かつて世界中を温かな笑いで包んだ、名コンビのローレル&ハーディ。実在した稀代のエンターテイナーの光と影を、最後となった英国ツアーに焦点を当て、老体にムチ打ち奮闘する彼らの一筋縄ではいかない関係性を通して情感豊かに綴った『僕たちのラストステージ』。時代に取り残され人気も低迷する一方の中で、"幻の新作映画"を妄想し続けるローレルの悲哀を、生粋のコメディアン特有のギラつき過剰を今回は封印し、共感込めて体現するスティーヴ・クーガンと、ハーディ当人に似せるべくファットスーツに身を包み、"リアル・マシュマロマン"のごとき超ぽっちゃり体形に変貌し、豊かな身体表現にて難役を演じきったジョン・C・ライリー。タイプは異なるものの、互いへのリスペクトを惜しまぬ実力派ふたりの、打てば響く絶妙のコンビネーションによって、言葉にせずとも理解し合える、長年連れ添ったプロフェッショナル同士ならではの堂々たるコンビ愛が、感動的にスクリーンに映し出されている。

 病的なまでに自身を清めることでギリギリ平静を保つ女性と、ひと知れず繰り返す自傷行為によって生の手応えを実感しようともがく女性。互いに傷つけながらも執着する、共依存のごときふたりの狭間で、複雑な心情に引き裂かれる男友だちや、刹那的に生きる孤独な青年らをも巻き込む、男女4人のやるせない絡み合いを見つめる『空の瞳とカタツムリ』。この印象的なタイトルは、9.11の2日前に53歳の若さで世を去った、相米慎二監督の遺作となってしまった『風花』(00)の、題名変更案の最終候補まで残ったものという。脚本家としての顔ももつ斎藤久志監督は、名脚本家の父・荒井晴彦譲りの才能で映画デビューを飾る荒井美早が紡ぎ出す、時に観念的にも聴こえる台詞の数々を繊細に吟味し、心と身体をさらけ出してカメラの前に立ち続けた果敢な役者陣を通して、ナチュラルに息づかせる。否応なく溢れ出す自意識と対峙しなければ前に進めないからこそ、何かとしんどい人生にも挑み続ける意義があることを、まとわりつく呪縛から解き放たれたような彼女たちの佇まいが、清々しく物語る。

 『永遠のこどもたち』(07)など、スペインの鬼才J・Aバヨナ監督とのタッグでも知られる脚本家のセルヒオ・G・サンチェスが、バヨナの製作で監督デビューを果たした『マローボーン家の掟』。母亡き後、外界から隔絶されたように森の中に佇む屋敷で、"何か"の気配に怯えつつ、責任感の強い長男を中心に、肩を寄せ合い暮らす4人の兄妹。ほのかな恋も芽生え、ささやかな日常の中の小さな幸せを噛みしめながら過ごす健気な彼らに、逃れようのない忌まわしい過去が立ちはだかる。過酷な現実に押しつぶされそうな子どもたちの、潜在的な恐怖の象徴であり、時には生きるための拠りどころにもなり得る、見えずとも感じる得体の知れないものへの畏怖の念が、グロテスクさと美しさが混在する独特の世界観を支えている。おどろおどろしい雰囲気すら漂う邦題とは裏腹に、忘れたくても忘れられない記憶と向き合いながら、かけがえのない存在へと想いを馳せたくなる、趣深いダーク・ファンタジーだ。

 ベルリンの壁崩壊後の、旧東ドイツの大型スーパーマーケットにて、様々な想いを胸に秘めて働くひとたちの悲喜こもごもを、ユーモアとペーソスを交えて細やかにスケッチした『希望の灯り』。自然光も射さない無機質な空間で繰り広げられる、何気ないルーティンワークを捉えたショットも、流麗なカメラワークやセンスの光る抜群の選曲によって、心躍るような名シーンへと生まれ変わる。出演作が相次ぐ"ドイツのホアキン・フェニックス"ことフランツ・ロゴフスキが、タトゥーを仕事着で隠しつつ、無軌道に振舞っていた厄介な過去に幾度となく引き戻されそうになりながら、さりげなく親身に接してくれる上司らに後押しされ、やっと見つけた愛のために真っ当に生きようとする不器用な前科者を好演。押し寄せる社会の変化の波に呑まれ、築いてきた価値観や信条が揺るがされそうになっても、大切なものを変わらず慈しみ続けることのできるひとたちに、深い愛情を込めてエールを送る逸品だ。

(映画ライター 服部香穂里)


第152回 "ひとり上手と呼ばれて"


 戦死した夫との夢を叶えるべく、小さな海辺の町のボロ屋を思い切って買い取り、書店経営へと乗り出す未亡人の孤軍奮闘を描く『マイ・ブック・ショップ』。メガホンをとるのは、『死ぬまでにしたい10のこと』(03)、『エレジー』(08)など、逆境に直面しても自分の意志で立ち向かう凛とした女性像を、共感を込めて描出してきたイザベル・コイシェ監督。よそ者の新入りに動揺し、閉鎖的な町に不穏な気配が漂う中、ひとり屋敷に引きこもる老紳士に後押しされ、自身の感性で選んだユニークな品揃えの本屋を切り盛りする女店主の華やぎが、生き生きと捉えられていく。実力派女優エミリー・モーティマーと、時を重ねるごとに演技や魅力に磨きのかかるビル・ナイという、『エレジー』のベン・キングズレー&ペネロペ・クルスもびっくりの年の離れた男女が、読書をこよなく好む同志愛を超えて、友情とも恋愛とも異なるかけがえのない関係性を育む様も感動的な、味わい深い逸品だ。

 『ムーンライト』(16)でアカデミー賞作品賞に輝いたバリー・ジェンキンス監督が、70年代のニューヨークのハーレムを舞台に、悲運に引き裂かれそうになりながらも、揺らぐことのないあるカップルの愛のかたちを、瑞々しく映し出す『ビール・ストリートの恋人たち』。差別主義者の白人警官に目をつけられ、無実の罪を着せられた幼なじみとの子を宿す19歳のティッシュは、彼を留置所から出すべく家族や仲間と奔走しながら、女手ひとつで子育てに奮闘する。面会室のガラスで隔てられたふたりに湧き起こる愛情は、歳月を経ても冷めるどころか熱気を増し、理不尽な試練にも負けず、前に進み続けるための活力となる。そんな彼女たちの不屈のポジティブさや子どもの健やかな成長が、悲痛な物語に爽やかな清涼感をもたらし、娘のためにある行動に出る母親のたくましさと脆さとを、内省的な演技で見事に表現したレジーナ・キングが、発表されたばかりのアカデミー賞など数々の演技賞を総なめした。

 やる気みなぎる新米黒人刑事が、エキセントリックな思いつきから、『ミシシッピー・バーニング』(88)などでも描かれた白人至上主義団体"KKK"に潜入捜査を試みる。フィクションであれば、"あり得ね〜っ!"と大ブーイングが起きそうな驚愕の実話を、鬼才スパイク・リー監督が緩急自在の演出手腕で、ユーモラスかつスリリングに映画化した『ブラック・クランズマン』。表向きの仮の姿は白人の同僚に任せて、自身は電話のみに専念することで、ふたりでひとりを演じきろうとする大胆極まりない計画。毛色の違う後輩の勢いに巻き込まれ、過激な思想に染まった団員らに同調するふりを見せ続けるうちに、ユダヤ人としてのアイデンティティをも再認識していく相棒刑事を、乗りに乗っているアダム・ドライバーが、深刻ぶりすぎることなく飄々と巧演。誰もが自分を見失い、誰かを貶めることに刹那的な快楽を見出す危険性をはらむ、現在にも通じる排他的な風潮に、力強くNOを突きつける快作だ。

 『勝手にふるえてろ』(17)のヒットも記憶に新しい大九明子監督が、婚期を逃しかけているOLの一念発起を、コミカルなほどリアルに活写する『美人が婚活してみたら』。"高嶺の花"感を醸し出す容姿が災いしてか、気づけば既婚者ばかりが火遊び気分で寄ってくる男運のない32歳のWEBデザイナーが、"死にたい……"と無意識に漏れたつぶやきに我ながらおののき、婚活を本格化させる。少々すっとぼけてはいるが誠実で結婚に意欲的な商社マンと、いかにも恋愛慣れしている歯科医という対照的な男性の間で揺れながら、過去の恋愛や自身の浅はかさをも見つめなおしていくヒロインを、"美人"にしては親しみやすい黒川芽以が茶目っ気たっぷりに好演。既婚だが子どものいない親友役・臼田あさ美との、どちらを選んでも茨の道な"女もつらいよ"な本音を互いに炸裂させるバトルシーンは、毒の効能を知り尽くす大九監督の真骨頂。同世代の女性たちの心の声を黒川がアンニュイかつポップなトーンで代弁するエンディング曲が、幸せのありようは千差万別であることを、しみじみと謳いあげている。

(映画ライター 服部香穂里)


第151回 "地球は女で廻ってる?"


 平成生まれの多部未華子が、平成最後の年に、しっかり者の娘をもつ母親役を演じているのも、様々な感慨が湧いてくる『トラさん 僕が猫になったワケ』。唯一の代表作の最終話を先延ばしにしたまま、5年間も鳴かず飛ばず状態の漫画家が、細腕ひとつで家計を支える妻の稼いだ金をつぎ込んだ競輪で大儲けした帰り道、交通事故で命を落とす。憎まれ口もたたくが父の一番のファンの娘や、菩薩のような良妻の優しさに甘え、家族を愛しつつも気ままに振舞ってきたダメ亭主は、実り乏しく終わった儚い人生を挽回するべく、成仏までの1カ月間、猫の姿で現世に留まることになる。実物の猫にひとの声をアテレコする形式をとらず、主演の北山宏光自ら着ぐるみ姿で"トラさん"を熱演することで、人間味あふれるコミカルさを醸し出すとともに、妻子のそばにいるのに正体を名乗れない半人半猫のもどかしさや切なさも、そこはかとなく伝わってくる。漫画の腕前まで披露する筧昌也監督のもと、ものづくりに情熱を注ぐスタッフやキャストが一丸となり、肉体は滅びても別のかたちで伝えたい想いを遺すことはできると謳い上げる、ハートウォーミングな良作だ。

 時代を超えて愛され続ける、ミュージカル映画の金字塔『メリー・ポピンズ』(64)から20年後を舞台に、オリジナルへの愛情と敬意を全篇に込め、新たに息づかせてみせた逸品『メリー・ポピンズ リターンズ』。大恐慌にあえぐロンドンの片隅で、住み慣れた屋敷からの立ち退きを迫られるある家族の前に、不思議な傘を片手に、メリー・ポピンズ(エミリー・ブラント、多くのプレッシャーを吹っ飛ばす好演)がエレガントに舞い降りる。自分にも他人にも厳しい彼女は、ドラえもんのごとく便利な小道具を大盤振る舞いする代わりに、想像という"魔法"こそが、新たな可能性を拓き何かを生み出すことにも通じると、柔軟な感性の子どもや、すぐに諦めてしまう大人たちをも鼓舞する。歌もダンスも得意なオールマイティの救世主の前に立ちはだかる、金しか信じない冷徹なヒール役に、知性派コリン・ファースを配することで、単なる夢物語のファンタジーでは終わらないリアルさも加味される。風とともに現れ、風とともに去り、逆境すらも好機や希望へと変えてしまうメリー・ポピンズ精神は、何かと世知辛い現代社会をたくましく生き抜くための拠りどころやヒントを、観る者にもたらしてくれる。

 稲垣吾郎、長谷川博己、渋川清彦という多彩かつ豪華な3ショットが、キネ旬の表紙を飾る日がくるなんて……と、心躍る異色の共演も見ものの『半世界』。父への反発心から、逆に家業を継いだ炭焼き職人と、何か重いものを背負って突然帰郷した元自衛官、そして、意外にクセの強いふたりの緩衝材役をさりげなく担う、心優しき自営業者の同級生トリオが、"不惑"を目前に控えながら、年甲斐もなく大いにジタバタする。三者三様の充実のキャリアを育んできた個性バラバラな男優陣を、中学時代から三人をよく知る職人の妻役の池脇千鶴が、地に脚ついた演技で好アシストし、浮世離れした雰囲気すら漂う彼らから、片田舎のおっさん感を絶妙に引き出している。ひとはひとつの人生しか選べないが、各々の目の前に広がる"半世界"にも、新鮮な驚きや発見が常にある。近年は、1作ごとに新たなジャンルを模索してきた風の阪本順治監督が、自身のオリジナル脚本で原点回帰し、限りある生を精いっぱい享受することのかけがえのない意義を、ささやかな日常描写を丹念に重ねて描出した、味わい深い人間ドラマだ。

 ヴェネツィア国際映画祭で2冠に輝くなど、賞レースを席巻し続ける『女王陛下のお気に入り』。先日発表されたアカデミー賞のノミネーションでは、アン女王役のオリヴィア・コールマンが主演に、その幼なじみで実質的な権力を握るレディ・サラ役のレイチェル・ワイズと、サラの脅威となる野心家アビゲイル役のエマ・ストーンが助演の枠で選出されたが、トリプル主演ともいえる三女優が火花を散らし、女だけの異様な三角関係の、何とも醜悪で滑稽な在りようを生々しく体現する。痛風に苦しみ、だだっ広い邸内を自力で移動するのもままならず、17匹のウサギを我が子同然に愛でる女王。彼女への友情と愛情を変幻自在に操り、国をも思い通りに動かそうとするサラ。落ちぶれた現状から上流階級への返り咲きを狙い、二枚舌、三枚舌を瞬時に使い分けて這い上がるアビゲイル。攻守や形勢が目まぐるしく変転するスリリングなパワーゲームが、覗き見感覚をくすぐる奇抜なアングルの映像を通し、観客にも臨場感たっぷりに体感される。『籠の中の乙女』(09)、『ロブスター』(15)など独特のフィルモグラフィーにおいて、勝者なき不毛なデスマッチの顛末を、透徹した演出眼で見届けてきた鬼才ヨルゴス・ランティモス監督が、スキャンダラスな史実に縛られすぎることなく、さらなる飛躍を遂げた注目作だ。

(映画ライター 服部香穂里)



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