第136回 "欠落、その後"


 漠然としたタイトルからは想像もつかない、現代社会のシヴィアな側面に、静謐なトーンを保ち鋭く切り込む異色作『ひかりのたび』。仕事の関係で各地を転々としながら、行く先々で、あまり歓迎されていない様子の父と娘。不動産ブローカーの世界を垣間見たユニークな経歴を生かし、本作で商業映画デビューを飾る澤田サンダー監督は、他者の不幸も好機と捉えるようなビジネスに身を捧げ、従来は悪役として片づけられがちな謎多き男性(高川裕也、独特の声色と緩まぬ表情筋がインパクト大)の葛藤や虚無感、ひとでなしにも映る彼に複雑な心情を抱きつつ、娘として支え続ける少女の健気さ、さらに、いびつな旅がらす親子が、自然豊かな土地とそれぞれに縁の深いワケあり地元民らに投げかける波紋を、クリアなモノクロ映像で描き出す。誰でも仮面を外せば、容易には割り切れない厄介な事情と格闘しながら、目の前の現実を必死に生きようとしている。そんな風に思いを馳せてみることで、心がふわりと軽くなる、不思議な魅力を秘めた作品だ。

 かつてはフットボールの花形選手だったがケガに泣き、不自由な脚のせいで炭鉱の職を追われた兄が、イラク戦争で片腕を失ったバーテンダーの弟らを巻き込み企てる、一発逆転の現金強奪計画。スティーヴン・ソダーバーグ監督が久々に映画界復帰を果たす『ローガン・ラッキー』は、『オーシャンズ』シリーズとは真逆に、ツキに見放された寄せ集め集団によるローテク、アナログなアイディアやアイテム満載の、親近感さえ覚える犯罪(もどき)の顛末を、ソダーバーグならではのひねりを利かせに利かせて活写する。そろそろジェームズ・ボンド役にも飽きてきたのか、破天荒な爆弾魔を嬉々として演じるダニエル・クレイグをはじめ、チャニング・テイタム、アダム・ドライヴァー、終盤のカギを握るヒラリー・スワンクら実力派キャストが織りなすアンサンブルがおかし過ぎて、いわゆるクライム・サスペンスからは大きく逸脱していくものの、珍妙な祭りの熱狂と興奮の後、金では買えない何かに満たされ、再び日常に戻る彼らの姿が印象的な、清々しい群像劇に仕上げた。

 『映画に愛をこめて アメリカの夜』(73)、『蒲田行進曲』(82)など、映画撮影のバックステージものには傑作が多いが、その系譜へと連なる愛すべき逸品が、第二次世界大戦下のロンドンが舞台の『人生はシネマティック!』。親の愛を知らずに育ち、乙女心にも疎い情報省映画局の敏腕脚本家と、女性ならではの言葉に対するセンスを買われ、畑違いの映画の世界へと飛び込む元コピーライター秘書。明日をも知れぬ過酷な戦況の中、疲弊する国民たちの戦意高揚を図るべく、かの"ダンケルクの戦い"をモチーフにした映画づくりを通して出逢う、まるで接点のないふたりは、微笑ましい衝突を繰り返しながら、やがて互いに離れがたい存在になっていく。次々と入る横やり、予期せぬトラブルなどの紆余曲折を経て完成した作品には、戦火をくぐり抜け命がけで現場に臨んだ活動屋の誇りと、さりげない瞬間でさえも、かけがえのないシーンに昇華させてしまう映画特有の神秘的な力が息づき、それは、全篇から溢れ出す映画への並々ならぬ情熱として、本作にも生き生きと引き継がれている。

(映画ライター 服部香穂里)


第135回 “愛された記憶”


 『ヨコハマメリー』(06)で鮮烈なデビューを飾った中村高寛監督が、後半生を京都・天龍寺で禅僧として過ごす横浜生まれの日系アメリカ人・ヘンリ・ミトワの型破りな生涯を、豪華キャストによるドラマ・パートなども交えて紐解く異色ドキュメンタリーの力作『禅と骨』。太平洋戦争前夜に危険をくぐり抜けて渡米したヘンリ。61年に帰国後は、茶道、陶芸などにも非凡な才能を発揮してきた彼の、趣味人としての優雅な隠遁生活に迫る一方、一向に戻らぬ愛息への想いを手紙に綴り続けて亡くなった、元芸者の母を見捨てたことへの悔恨や贖罪の念が託された、"赤い靴"をモチーフとする映画づくりへの狂気めいた情熱や執着をも、カメラは捉えていく。90歳も超えたヘンリに死の影が忍び寄るにつれ、それぞれの道を歩み、まるで似ていない3人の子どもたちの複雑な胸中も明らかにされる。カメラを過剰に意識する米国在住の長男に対し、日本で家庭を築き、破天荒な父への積もりに積もった憤りを、露悪的なまでの辛辣さでぶつける次女。その幼い頃のあどけない表情がはじける膨大なプライベートフィルムが、憎いほどに想い合うユニークな家族の、一筋縄ではいかない愛のかたちを示し、闇鍋のごとき味わいの本作を、感動的に締めくくる。

 初長篇『九月に降る風』(08)が絶賛された台湾の気鋭トム・リン監督が、原作者からラブコールを受けた絵本を基に11年に映画化するも、日本では翌年の大阪アジアン映画祭で上映されたきり、観る機会に恵まれなかった珠玉作『星空』が、遂に公開。現在も活躍するキャストの初々しさ、ちょっぴり過去の街の佇まいなど、空白の歳月が"ケガの功名"たる効果をもたらし、誰もが経験する、かけがえのない青春の一瞬のきらめきを丹念に掬いとる本作に漂うノスタルジックな情感を、より豊かなものにする。子どもの無邪気さを失いつつ大人の庇護なしにも生きられない、13歳という多感な時期に運命的に出逢い、疎外感や美を愛でる繊細さを密かに分かち合う女の子と男の子の、ひと夏の冒険。折り紙の動物たちが悠然と闊歩するメルヘンチックな心象風景とは裏腹に、大切な存在の死や離別、理不尽な暴力など、かよわい彼女たちに否応なくのしかかるヘヴィーな現実にも、冷静に目が向けられる。失われた幸福の象徴として登場する、永遠に完成しないジグソーパズルが、忘れられない相手をいつまでも想い続ける、愛のサインへと反転する妙味。そこには、『百日告別』(16)など、その後のトム・リン監督作品でも色濃い、死とともに生があり、終わりは始まりの兆しでもあるという、彼ならではの信念が、清々しく脈打っている。

 魚喃キリコの漫画では、今起こっていることでも、既に過ぎ去ってしまったかのように錯覚させる、対象との絶妙な距離を保ち続ける透徹した視線が、唯一無二の世界観を支えている。その独特の空気は、『blue』(02)、『ストロベリーショートケイクス』(06)などの実写映画化作品でも見事に表現されていたが、今なお愛される彼女の代表作『南瓜とマヨネーズ』に挑んだのは、『ローリング』(15)において、既にこの世のものではないダメ男の回顧録という離れ業をやってのけた、鬼才・冨永昌敬監督。同棲中の恋人の才能に惚れ込み、ミュージシャンとして大成する夢を叶えるべく尽くせば尽くすほど、彼を曲づくりから遠のかせ、ふたりの心は離れていく。それでも、お互いを求め合うしかない惰性の日々が続く中、彼女の前に、たまらなく好きだった昔の男が現れる。ドロドロの三角関係……とはならず、別れの予感を常に肌で感じつつ、今を率直に生きる男女が組んずほぐれつする中で、1曲の歌が生まれる。『ポンチョに夜明けの風はらませて』(17)ではスルーされた、太賀のギター弾き語りは、二次元の壁を飛び越えて温かく響き、『ビフォア・サンセット』(04)にも似た切ない余韻を残す。

 ファッション界で華々しく活躍し、"孤独"の本質を陰影豊かに探求してみせた『シングルマン』(09)で、映画監督としても一流であることを強烈に印象づけたトム・フォード。長篇第2作となる『ノクターナル・アニマルズ』は、壮絶な復讐劇にして、胸かきむしられるほどに醜くも美しいメロドラマでもある。アートギャラリーのオーナーを務めるスーザンのもとに、疎遠だった元夫から届けられる、"夜の獣たち"と題する小説。作家を志すも芽が出ず、それが別れの一因ともなった彼が、元妻に捧げるかたちで書きおろしたその作品は、ショッキングな内容自体はフィクションであるが、妻を幸せにできなかった夫の途方もない無力感と絶望、夫を見限った非情な妻への屈折した愛情や今もくすぶり続ける未練が、赤裸々に綴られていた。夫の可能性を信じたいのに、最も軽蔑していたはずの母(ローラ・リニー、凄まじい貫録で怪演)に日に日に似てくる、典型的ブルジョア娘としての過去。かつて愛し合った男との再会を心待ちにしながら、見るからに成功したキャリアウーマン然とした鏡に映る虚像と、自問自答する現在。再婚相手との仲も冷え切り、眠れぬ夜を経るごとに作品世界に没入していくスーザンの胸中を覗き込むがごとく、現実と虚構がミステリアスに交錯するうちに、曰く言い難いカタルシスに包まれる傑作である。

(映画ライター 服部香穂里)


第134回 “逃げても、隠れても”


 漠然とした不安を抱える日常に背を向け、あてどないドライヴへと出かける3人組の、高校生活最後の旅を描く『ポンチョに夜明けの風はらませて』。期待の新鋭・廣原暁監督は、『ひゃくはち』(08)、『ぼくたちの家族』(13)など良質な映画化作品も多い早見和真の原作を得て、整然とした中にも熱気をはらむショットを丹念に重ねることで、傍から見ればどうでもいいことでも、当人たち同士にとっては結構かけがえのない瞬間だったりする、青春時代特有の空気感を、粘り強く捉えていく。笑っちゃうほど無残な姿に変わり果てるセルシオを乗り回し、流浪の旅を続ける太賀、中村蒼、矢本悠馬と、彼らの帰還を待ちわびつつ、卒業式のゲリラライヴに備え、ひとり黙々と練習に励む染谷将太。現在の映画界を担う、"あの頃"を既に通過してしまっている成人+αの実力派俳優陣が演じることで、どこかノスタルジックな雰囲気も加味され、観る世代それぞれの楽しみ方ができる味わい豊かな作品となった。

 繊細な題材ゆえ、作り手たちのスタンスにより、様々なホロコーストの映画が製作されてきたが、きわどいユーモアをハラハラするほどふんだんに散りばめ、とびっきり異色と思われるチャーミングな意欲作が『ブルーム・オブ・イエスタデイ』。ナチスの戦犯だった祖父を徹底的に否定することで、自己を肯定しようともがくホロコーストの研究者と、ナチスに殺害されたユダヤ人の祖母の無念を胸に刻み、同じく研究者の道を歩み始めたインターン。対照的な境遇だが、それぞれに心の傷と格闘し、ままならない日々を懸命に生きてきた男女が、度重なる衝突や奇妙な因縁に翻弄されつつ、思いがけず愛が生まれる。悲劇的な歴史は変えられず、子孫たちにも脈々と引き継がれていくが、前を向いて新しい未来を模索することは、決して罪ではない。まさかの受難に見舞われるキュートなパグ犬も抜群の効果を発揮し、破天荒だがちょっぴり切ない余韻を残す、パワフルなラブストーリーである。

 寺山修司が遺した唯一の長篇小説を、舞台を東京オリンピック後の近未来に移し替え、大胆に映画化した『あゝ、荒野』は、前後篇併せ驚異の305分。よほどの覚悟と自信がなければ成立し得ない企画であるが、キャストすべて(ここ、重要)の並々ならぬ情熱と献身を、少しだって無駄にはしまいと半端ない集中力と気合で応えた製作陣が、見事に結実させた。母親の愛を知らずに育った、少年院上がりの新次(菅田将暉)と、威圧的な父親から逃れられない、吃音に悩む建二(ヤン・イクチュン、『息もできない』(09)とはまるで別人!)。ボクシングを介して、重なるはずもないふたつの人生が、激しく交錯する。"憎しみ"こそが原動力となる過酷な勝負の世界で、めきめきと頭角を現していく新次に対し、どうしても対戦相手を憎めない心優しき建二は、殴る、殴られる行為をある種の愛情表現と捉え直し、兄弟のような関係で強く結ばれた新次との闘いに、命の限りを注ぎ込む。ユースケ・サンタマリア、高橋和也らベテランから、木下あかり、山田裕貴ら若手までが、それぞれにドラマティックな役柄をリアルに生ききり、圧巻のクライマックスでは、目が汗と涙でぐちゃぐちゃに釘付けにされてしまう、心揺さぶる一大巨篇だ。

(映画ライター 服部香穂里)


第133回 “逆風満帆”


 視力と聴力。いずれが欠けても、生活する上で想像を絶する困難を強いられるだろうものだが、その両方のハンディとともに生きるひとたちの日常を真摯に見つめるドキュメンタリーが『もうろうをいきる』。40歳を前に、聴力ばかりか光までもが奪われてしまった女性、被災した故郷に留まり、同様の障害をもつ人たちのために積極的に働きかける男性……。様々な盲ろう者たちが、懸命に社会とつながる風景が生き生きと捉えられていくが、とりわけ強い印象を残すのが、視力が完全に失われてしまう前に、精一杯のことを吸収しようと前向きに励む趣味人の女性が絞り出す意外な本音に、思わず涙してしまう健常者の通訳の女性の姿。障害と闘うひとの耳となり、意思疎通をスムーズに図れるように尽力してきた彼女だからこそ、それでも乗り越えられない壁のようなものの存在に打ちひしがれる悲しみが、カメラを通して伝わってくる。直にふれ、面と向かい、時にはぶつかり合うこともいとわず“対話”することの大切さを、改めて痛感させられる作品だ。

 ある日、サーフィンに夢中の青春を謳歌する青年が交通事故に遭い、脳死状態に陥る。別居中の両親は、あまりに突然の不幸に悲嘆にくれるばかりだが、臓器移植という一刻の猶予も許さぬ究極の決断を迫られ、大いに苦悩する。『あさがくるまえに』は、ひとつの死がもたらす波紋と、それを生へとつなげるべく奔走するひとたちの奮闘を、スリリングかつ濃密な一日に集約させた、心揺さぶる人間ドラマ。心臓が鼓動を止めてしまう、最期の瞬間に立ち会うことを許されない両親は、誠実で溌剌とした移植コーディネーターの医師に、切なる願いを託す。ル・アーブルからパリへと迅速に移送された心臓を移植する、息を呑むほどリアルに映し出された手術シーンは、ひとの手に生命のゆくえが委ねられているという神秘的かつグロテスクな現実をも、まざまざと見せつける。初々しい恋愛真っ只中の青年の短すぎる生涯を悼みつつも、遺された者たちの葛藤や覚悟を木目細やかに描き、彼らの想いを受け継ぐ生のめざめの瞬間をいとおしむ、温かな余韻に包まれる佳篇である。

 今年の偏愛映画暫定ベストワンの『パターソン』(16)も公開中のジム・ジャームッシュ監督が、親交の深いイギー・ポップが67年に結成したロック・バンド“ストゥージズ”の波乱の道のりを、貴重な証言や映像、コミカルなアニメーションなどを交えつつ、心からの敬意を込めて描く『ギミー・デンジャー』。上半身裸で身体をくねらせつつ、興奮状態の観客席へと躊躇せずダイブするイギーの過激なパフォーマンスをはじめ、独自のスタイルを貫く音楽性は、その後活躍する数々のミュージシャンに影響を与えるも、当時の批評家からは酷評され、74年に解散。しかし、イギーとデヴィッド・ボウイとの複雑な関係性を投影したとされる『ベルベット・ゴールドマイン』(98)も呼び水となり、ストゥージズは03年に再結成を果たす。8年もの製作期間のうちにこの世を去った、3人のオリジナル・メンバーらに捧げられる本作は、唯一無二の伝説のバンドにスポットを当てる中で、ロックンロール史もが紐解かれていく、音楽愛に満ち満ちたドキュメンタリーだ。

 紆余曲折を経て決まった、『ドリーム』なるぼやけた邦題のためか、唄う女性トリオの別の作品を連想させてしまいそうだが、何をやってもうまくいかない運の悪さを社会のせいにしがちな、ネガティブ人間の肝っ玉を根本から覆し、事実に根差す圧倒的な説得力で鼓舞する、数々の映画賞を席巻した好篇である。ソ連との熾烈な宇宙開発バトルを展開するかたわらで、未だ人種差別が根強く残る、60年代初頭のアメリカ。黒人女性であるがゆえに、理不尽な障壁に阻まれる3人の才媛が、白人男性優位の職場(=NASA)において、たゆまぬ努力と類稀なる能力で、実り多き未来を自らの手で切り開いていく凛々しき姿が、流麗なタッチで描き出される。同じく有人宇宙飛行を志す“マーキュリー計画”を背景に、先日亡くなったサム・シェパードが、華やかな表舞台の影で音速の壁に挑み続ける命知らずのパイロットを快演した『ライトスタッフ』(83)も併せて観たくなる、揺るがぬ史実に対し、柔軟で彩り豊かな視点を提供する、意義深い傑作が誕生した。

(映画ライター 服部香穂里)


第132回 “それぞれの幸せ”


 以前、電車の中で、向かい合わせの席に陣取った聾唖の方たちが、多彩なボディランゲージも交えた手話で、実に楽しそうにお喋りしている光景を目にして、話の内容はちんぷんかんぷんながら、何となく幸福の御裾分けをしてもらったような心持ちになったことがある。ともに耳が聴こえなくとも、大恋愛の末に結ばれ、二人の子どもを愛情たっぷりに育て上げた父と母の日常を、幼い頃から彼らの心の声を代弁してきた韓国の女性監督イギル・ボラが、実の娘ならではの親密なまなざしで切り取った温かなドキュメンタリーが『きらめく拍手の音』。男子たちの憧れの的だった美女と、猪突猛進型のサッカー青年との馴れ初めから、周囲に色眼鏡で見られがちな親に余計な心配や迷惑をかけまいと、いち早く大人の領域へと踏み出さざるを得なかった姉弟のいじらしい苦悩まで。アイコンタクトを欠かさず、表情豊かに身ぶり手ぶりで胸中を伝え合い、カラオケボックスでは、お気に入りの歌を熱唱する今もラブラブな両親の姿を感慨深く見つめつつ、音のない世界だけがもつ深遠な奥行きが想像される気がした。

 朝ドラ出演以降、コミックの原作ものなど、ティーン向け作品のヒロイン役に引っ張りだこの土屋太鳳。その正統派美女っぷりにより、同性から憧れと同時に嫉妬のようなものも買ってきたと思しき彼女が、『ヒロイン失格』(15)であの桐谷美玲からNGスレスレのバラエティに富む“へんてこ顔”を引き出した英勉監督と組んだ『トリガール!』は、ウィークポイントをも自虐的な誠実さで赤裸々にさらけ出し、コメディエンヌとしての才能も豪快に開花させた快作である。誰もが一度はTVなどで見たことがあるであろう“鳥人間コンテスト”に、様々な理由で挑む大学生たちのユニークな青春。ヤンキー風の堂々たる図体とは裏腹に、ガラスのハートを秘めたギャップ系イケメン間宮祥太朗と土屋との、ああ言えばこう言う壮絶な毒舌夫婦漫才のごとき絶妙な凸凹コンビネーションに爆笑しつつ、一年に一度のビッグイベントの醍醐味が、その一瞬に懸ける、秀でた頭脳や卓越した身体能力など特別な技能をもつ個性的な面々の真摯な献身と相まって、より臨場感たっぷりに伝わってくる。

 作家ヨハンナ・シュピリの母国であるスイスで、満を持して実写映画化された『ハイジ アルプスの物語』は、まったく笑えない無神経な某パロディCMに遭遇する度、傑作アニメシリーズ「アルプスの少女ハイジ」(74)の良き想い出までもが汚されてしまうような不快感に陥る身には、懐かしく嬉しい王道の仕上がり。親を亡くし、合理的な思考の叔母に翻弄されるハイジは、無愛想だが筋の通った屈強な山男のおんじ(名優ブルーノ・ガンツがワイルドかつセクシーに好演)に見守られながら、広大なアルプスの自然の中に、自分らしく生きられる最高の居場所を見つける。裕福だが愛に飢えた日々が、障害という形で暗い影を落としているクララに、誰かから与えられるばかりでなく、自身の力で感じ取り、吸収することの大切さを、天真爛漫な言動で生き生きと証明するハイジ。ささやかな幸福は、身近なところにひっそりと隠れていることを改めて気づかせてくれる、清々しい佳篇である。

 世の女性のハートを鷲掴みにした大ヒットドラマ「セックス・アンド・ザ・シティ」(98‐04)のミランダことシンシア・ニクソンが、没後130年以上経った今も、世界中で信奉者を生み出し続けている米国の女性詩人エミリ・ディキンスンの複雑な内面に、繊細にアプローチしてみせた力篇が『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』。女性が思いのままに生きづらかった時代に、率直でブラックなユーモアをたたえた辛辣家でもあった資産家の娘とかけがえのない友情を育むも、彼女の結婚などにより次第に孤独感を募らせ、姉想いの妹の愛ある助言や、心より差し伸べられる他者の手をも拒絶し、自らを容赦なく追い詰めていくエミリ。何よりも家族との暮らしを第一に考え、家庭に引きこもりがちだった彼女は、無限に広がる外部の世界とつながる唯一の手段として、秘めたる想いを絞り出すように詩作に没頭する。ストイックな境地から紡ぎ出された、絶望と希望がスリリングに均衡を保つ独創的な詩の世界が、聴きよい声色に恵まれたニクソンの実感こもる朗読により、じんわりと胸にしみ込んでいく。

(映画ライター 服部香穂里)


第131回 “異端の戦い


 懐かしさに負け、また、新シリーズへの期待(+不安…)も含め、「ツイン・ピークス」(90‐91)一挙放送を観てしまっている。お気に入りだった“丸太おばさん”など既に亡くなった方も多く、アンニュイなテーマ曲とともに切なさが込み上げもするが、これだけ何かが欠落した(あるいは過剰な)人物たちが、それぞれに葛藤を抱えながらも、どっこい生きてるこの片田舎に、憧れのようなものさえ抱いてしまう。ついついエンドレスに観続けたくなる、今更ながらヤバい逸品である。

 そのものズバリの題名が、シンプルだがインパクト大の『ろくでなし』。登場人物すべてがタイトルロールのようにも思えてくる歪んだ世界観の中で、若き気鋭・奥田庸介監督は、はぐれ者には過酷すぎる大都会・渋谷に充満する疎外感を生々しく捉えつつ、一方的に惚れ込んだワケあり女に、愚直なまでに尽くそうとする真っすぐな男と、飄々と渡り歩いてきた黒社会でそれなりの地位を得るも、次第に虚しさを募らせていくバツイチやくざとの間に芽生える風変りな同士愛を、乾いたユーモアも交えて丹念に描き出す。従来のイメージを嬉々として裏切る大和田獏の怪演が光る、狡猾なボスの得体の知れない存在感が、何者にもなれない“ろくでなし”たちの不器用な純粋さを一層際立たせ、世間的には完全に間違っているとしても、彼ら自身にとっては大正解であるそれぞれの選択に、半ば強引に納得させられてしまうエネルギッシュな一本。

 バイプレーヤーとして着実にキャリアを重ねる一方、涙なくしては観られない『ぼくのおばあちゃん』(08)から、衝撃の超問題作『木屋町DARUMA』(14)まで、多彩な人間ドラマを手掛ける実力派監督としても活躍する榊英雄が、窪塚洋介&降谷建志という異色コンビを主演に、野良猫のごとくさすらう人たちを活写する意欲作が『アリーキャット』。ボクサーくずれの悩めるアルバイト警備員と、自動車整備工場勤めのコーラをこよなく愛する気ままな男。接点ゼロなはずの水と油なふたりが、ある迷い猫の“親権”をめぐって出逢い、ひょんなことから常軌を逸したストーカーに付きまとわれるシングルマザーのボディガードを請け負う中で、関係性を深めていく。ブレることのない強烈な個性同士が、各場面で予期せぬ化学反応を起こし、対話劇としてのとぼけた味わいも、アメリカン・ニューシネマ風の破滅的な展開に心地よい風穴を開ける、ユニークな快作となった。

 英国ロイヤル・バレエ団の史上最年少プリンシパルとなるも、わずか2年での退団がセンセーションを巻き起こした異端のバレエダンサーの、知られざる心の軌跡を追う胸打つドキュメンタリーが『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』。ウクライナで生を受けた瞬間から、看護師も恐れおののくほどの驚異の身体柔軟性に恵まれ、家族がひとつになることを夢見てバレエに打ち込むものの、イギリスに渡りめきめきと頭角を現すにつれ、却って家庭の崩壊を誘発することになるジレンマ。型にはまった名門での窮屈なハードワークに疲弊し、バレエから距離を置こうと何度トライしてみても、並外れた才能がそれを許さぬ天才ダンサーゆえの孤独。芸術に殉じる者たちが、数々の苦難の末に、心身を犠牲にしてまで到達し得た境地が、何故これほどの熱狂や感動を生むのかを、破天荒だが踊りにはストイックなポルーニンの半生が、ダイナミックに解き明かしてみせる。かのエルキュール・ポワロにふんするケネス・ブラナーが監督も務める『オリエント急行殺人事件』(17)など、俳優としても活動の幅を広げる彼の今後にも目が離せない。

(映画ライター 服部香穂里)


第130回 “運と命”


 “この映画を観るまでは、死ねない!”。そんな想いだけで、ここまで来てしまったのは、あんまり幸せなことではないように思われるが、もう一度やり直せるとて、流れるまま、こんな感じなんやろな、きっと。抗わない、抗えない……。

 人気俳優の向井理が、出世作となった朝ドラ「ゲゲゲの女房」(10)の脚本家・山本むつみにラブコールを送り、実の祖母の自叙伝の映画化を実現させた渾身作が『いつまた、君と 〜何日君再来〜』。敗戦後の混乱期に命懸けで上海から引き揚げたものの、運にも見放されて何をやっても上手くいかない夫を献身的に支える祖母の若かりし日を、「夫婦善哉」(13)、「夏目漱石の妻」(16)などのTVドラマで、“だめんず”ばかり引き当てる受難系ヒロインの道を究める尾野真千子が好演。相次ぐ多彩なオファーにも真摯に対応する実力派の深川栄洋監督は、成瀬巳喜男ばりの冷静な洞察眼を軸に、傍から見れば不幸のどん底にも映る悲惨な状況をも、“おもろい夫婦”ならではの屈折した愛のかたちとして、アキ・カウリスマキ風の飄々たるおかしみで包み込んで見せる。祖母孝行な向井の真っすぐな想いは、親の愛情を求める寂しい幼少期を過ごした彼の母親にも向けられ、さらには、誰かの子どもで孫でもある個々に、家族にまつわる特別な物語が存在することを、しみじみと気づかせてもくれる。

 2015年に起きたネパール大震災の直後に、被災地へと飛んだ写真家の石川梵が、震源地となったラブラック村での取材を通して様々な感慨に突き動かされ、現地を舞台に映画監督デビューを果たしたドキュメンタリー『世界でいちばん美しい村』。重傷を負いながら九死に一生を得るも、地震の際も一緒に遊んでいた大の仲良しを亡くした天真爛漫な少女。放牧で不在がちな父親に代わり、母親や妹のために奮闘する少年。山岳ガイドの夫を地震に奪われた自らの運命を呪って信仰心が揺らぐ中でも、無医村で一軒一軒訪ねて回りながら医療活動に奉仕し続ける凛々しき看護師。幼い娘を失った絶望感から逃れるように村を立ち去るも、親しい隣人たちが住まう故郷に再び戻ってくる夫婦……。空撮にも長けた石川監督は、今なお地震の危険と隣り合わせの荘厳な自然とともに歩み、それぞれに痛みやジレンマと格闘しながら、日々を懸命に生きる人ひとりひとりに美を見出す。あらゆる優先順位が理不尽に狂わされている現在、大切なものを守るために自分には何ができるのか、考えを巡らせずにはいられない良作だ。

 子どもは親を、決して選ぶことはできない。各国の映画賞で大旋風を巻き起こし、満を持して日本にも上陸する暴れ馬のごとき注目作『ありがとう、トニ・エルドマン』を手掛けたドイツの女性監督マーレン・アデは、逃げても逃げても追いかけてくる、それでいて、ふとした瞬間には愛おしさすら込み上げたりもする、ややこしい宿命のような父娘関係の行く末を、3時間弱にもわたり、粘着質なアイロニーと、ひとという多面的な生きものへの好奇心に満ち満ちたユーモアたっぷりに、辛抱強く見つめ続ける。グローバル化が急激に進行する歪んだ世界の片隅で、常人には理解し得ない“トニ・エルドマン”なる奇抜過ぎる別人格を演じることでしか、娘への率直な愛情を表現できない面倒くさい父親と、そんな血を引き継ぐぶっ飛んだアイデンティティを肩肘張って押し殺しつつ、多国籍企業の一員として携帯が鳴り止まぬハードワークに忙殺される娘。鮮明に記憶の中で生き続ける今は亡き歌姫ホイットニー・ヒューストンの名曲を効果的に用いて、自分らしく生きることの意義を、呆気にとられる大胆な手法で高らかに謳い上げる本作は、そんな思い切った選択には多大な困難が伴う時勢ゆえ、一層輝かしいきらめきを放つのかもしれない。

(映画ライター 服部香穂里)


第129回 “逃亡の果てに”


 パキスタンに生まれ育ち、アメリカで映画制作を学んだ女性監督アフィア・ナサニエルが、前途ある少女が愛のない結婚を強いられる故国の現状に真っ向から異議を唱え、決然と長篇劇映画デビューを果たした意欲作が『娘よ』。自らの意志とは無関係の婚姻関係を、若き日に一方的に結ばされた母。部族間の紛争絡みで急浮上した、唯一の生きがいである10歳の愛娘の結婚話に不安と憤りを覚えた彼女は、式当日の朝に、ウエディング衣装に身を包んだ娘を連れて、逃避行の旅に出る。我が子の幸福のためには命さえ惜しまぬ深い親心を取っ掛かりに、ちょいアミターブ・バッチャン似のナイスガイなトラック運転手との恋愛模様なども交えつつ、悪しき因習に奪われた自身の青春をも取り戻すがごとく、活力をみなぎらせる美しき母の変貌の軌跡が、ドラマティックに映し出される。山岳地帯の壮大なロケーションでの過酷な撮影も、衝動的な逃走劇のスリルやスケール感をアップさせるのに十二分に貢献し、見所多彩な1本となった。

 ネタバレ気味の思い切った邦題に、120分超の長尺もつのかしらん……と不安を募らせつつ、圧巻のクライマックスまで、目を釘付けに魅了するエンターテインメント大作が『世界にひとつの金メダル』。オリンピックの中でも、もうひとつ馴染みの薄い馬術競技を題材に、しかも、他者とスピードを争う競馬などとも違い、様々な障害物が設置されたコースを、乗馬した各選手が淡々と飛び越えていく“障害飛越競技”なる渋い分野にすべてを捧げたアスリートの実話がベースとなっている。幼少より全力でサポートを続けてくれた父のプレッシャーから逃れるように弁護士の道を歩むも、ナイーヴで身体も小さいが才能豊かな若馬と出逢い、再び熾烈な競技人生へと邁進する主人公を好演するギョーム・カネ自身も、かつて競技馬術に情熱を注いでいた経歴の持ち主。そんな彼が脚本も執筆し、スタントなしで果敢に演じることで、感動的なサクセスストーリーの映画化という枠を超え、人並みの自我をもつ個性溢れる馬と信頼を育みつつ、自らとの闘いにも打ち勝とうともがく男の葛藤にもリアルに迫る、普遍的な人間ドラマに仕上がっている。

 兄の死を機に、忘れたくても忘れられない過去と向き合わざるを得なくなる男の、激しく揺れ動く胸中に繊細に肉迫したケイシー・アフレックが、アカデミー賞主演男優賞に輝いた注目作が『マンチェスター・バイ・ザ・シー』。凄惨な悲劇に見舞われ、心の一部が壊れてしまって以来、自家中毒すれすれの生活を送る弟の身の上を、自分も心臓に爆弾を抱えながら、一人息子の成長とともに、見守り案じてきた兄。死の気配が静かに忍び寄る中でも、生に前向きだった兄の最後の粋な計らいが、過去から目を背け続ける弟に、温かく“待った”をかける。父を亡くした喪失感に時折パニックに陥るも、バンド活動や二股交際(!)にも積極的に励み、華の高校生活をエンジョイしまくる超現代っ子な兄の遺児の飄々たるキャラクターも、刹那的な弟の暮らしに、安らぎと潤いを与える。過ぎ去った日々と進行中の現在とが並行して映し出されるうちに、たとえ悲しみを乗り越えられなくても、やがて訪れる未来に平穏を見出すことはできるというポジティブな兆しが、じんわりと胸にしみてくる佳篇である。

(映画ライター 服部香穂里)


第128回 “恐怖≒親愛”


 ある恐怖を、その根源を見極めることなく、一時的に排除しようとしても、さらなる恐怖しか生まれない。逃げずに真っ向から対峙するには、相当な苦難が伴うけれど、それに果敢に挑んだ人たちの物語。

 現在の映画界の実情に、冷静かつ大胆に切り込んだ『アクトレス 〜女たちの舞台〜』(14)のオリヴィエ・アサイヤス監督&クリステン・スチュワートの再タッグと聞き、一方的に抱く期待やイメージを悠然と裏切り、カンヌ国際映画祭で監督賞に輝いた『パーソナル・ショッパー』。クリステンが演じるのは、『アクトレス〜』の敏腕マネジャー役同様、セレブリティの裏方であり、その私生活にも深く関わる“パーソナル・ショッパー”。パリの街を、プジョーのオートバイで颯爽と走り廻るタフなキャリアウーマンだが、一心同体だった双子の兄の急死が、深い影を落としている。先立った方がサインを送るとの兄妹間の約束を固く信じ、兄からの接触を心待ちにする中、彼女の秘めたる欲望や脆さを見透かすかのような差出人不明の携帯メールが、次々と送られてくる。匿名の悪意が不気味さを増す一方、未練を残す現世に、様々な形で交信を試みようと懸命な死者たちは、畏怖から身近な対象へと変わっていく。さりげなく吹き込む風や、かすかに響く物音にさえ、何か意味を見出したくなるような、スリリングな示唆に富む一本。

 チベットの広大な大地を舞台に、牧畜を生業とするある一家の生の営みを見つめる『草原の河』。弱冠6歳にして、既にジョウ・シュンのごとき魔性と演技力を開花させつつある少女は、母の胎内で日に日に大きくなっていく妹か弟に、親の愛情を奪われはしまいかと、嫉妬にも似た恐れを抱いている。やさぐれたイ・ビョンホンといった風情のチェーンスモーカーの父は、4年前に端を発する確執から、実の父を憎んできたが、今や病床にあると耳にしてからは、折れてしまいそうな心を鼓舞し、見舞いに訪れても顔は出さずに意地を通し続ける。まだまだ甘えたい盛りの娘が、衝動的に仕掛けた悪戯が引き金となり、不穏な騒動へと発展するが、もつれにもつれても断ち切り難い血縁こそが、生命をつなぐ大切な拠り所となり得ることを、改めて痛感させるきっかけにもなる。人間の無力さを際立たせる過酷な自然の象徴であり、愛すべき強情っぱりの似たもの父娘のささやかな成長をも、傍らで静かに見守り続ける河の、スクリーンに映える季節ごとの多彩な表情も印象深い、ナチュラルな肌ざわりの力作である。

 SFというジャンルを敬遠しがちな人たちの琴線にこそ触れる気がする、他に類を見ない珠玉作が『メッセージ』。地球各地に奇妙な飛行物体が出現し、国家から要請を受けた女性言語学者は、不意に脳裏をよぎる亡き愛娘の面影や幻影を振り払うがごとく、謎の生命体との意思の疎通に全力を注ぐ。未知なるものを脅威とみなし、狂乱の場と化す社会の喧騒からは遠く離れて、微笑ましい仮名まで与えられた生命体と、独創的なアプローチによるセッションを重ねるうちに、少しずつ関係性が育まれていく。そんな彼女にしか体感し得ない世界が、緻密な編集を経て丹念に映像化されることで、時間という概念をもたない“それら”の思考経路を共有するという、極めて貴重で崇高な疑似体験がもたらされる。過去から未来へと流れを形成することなく、今この瞬間のみが存在し消えていくとすれば、途方もない痛みでさえ、生を取り巻く無数の要素のほんの一部として、乗り越えられるかもしれない。失うことを恐れず、正に芽吹きつつある幸せの気配へと飛び込むヒロインの凛々しさに、淀み続けていた靄が、晴れわたる気がした。

(映画ライター 服部香穂里)


第127回 “あの日、あの時”


 その瞬間には、それと気づかずやり過ごしてしまっても、後々に振り返ってみると、あの出逢い、あの出来事が、大きな意味をもっていたということは、よくある。そんな積み重ねの先にある今を、受け止められる強さがあったらいいな。

 未来を予見できる“魔女”を中心に据え、表面上は治安が保たれている架空の街を舞台に、世界を3日分まで巻き戻せる力や、その間すべてを忘れずにいられる記憶力など、多彩な特殊能力をもつ者同士の孤独なせめぎ合いを、スケール豊かに前後篇2部作で綴る『サクラダリセット』。輝ける未来へと住民たちを導くべく、現在を犠牲にしてまでも、献身的な奮闘を続ける若者たち。奇想天外な設定や厄介な約束事の中で展開される物語を、コンスタントに結果を残し続ける実力派の深川栄洋監督は、アメコミ原作のハリウッド大作とは違い、敢えて淡々としたトーンで描出し、一筋縄ではいかない人物たちの内面に焦点を当てる。2年前に不可解な死を遂げた同級生の存在が、深い影を落とす前篇から、急転する後篇へ。生死を超えても成就を願う恋や、歪んだ時空から不意に聞こえてくる秘めた想いなどが絡み合い、ありがた迷惑な能力に目覚めてしまったアウトローならではの、ユニークな青春映画となった。

 台湾の若き気鋭監督トム・リンが、愛妻に先立たれた癒し難い喪失感と、その痛みとともに生きていく覚悟を、フィクションとして見事に結実させた『百日告別』。突然の交通事故に巻き込まれ、結婚式を目前に控えながら調理師の婚約者を失った女性と、ピアノ教師の妻とまだ見ぬ我が子を同時に奪われた男性。故人を悼む気持ちは人それぞれゆえ、周囲の慰めや励ましの言葉も空転するだけで、気がつくと、あの日以前の幸福な時間に引き戻されてしまうふたりの心の隙間に、激しい自棄の念や死への誘惑が忍び寄る。そんな後ろ向きの彼らにかすかな希望をもたらし、新たな日常へと踏み出すための活力を分け与えてくれるのが、少年時代の婚約者から恩師を通じて届けられる心づくしのカードや、妻の生真面目そうな教え子が弾きこなす美しいショパンの音色。形を変えて生き続ける、最愛の人の気配が引き起こすささやかな奇跡に、今はもういない大切な存在が思い浮かび、涙が込み上げる佳篇である。

 世界の片隅に追いやられた人たちの内なる声に、耳を傾け続けてきたベルギーの名匠ダルデンヌ兄弟が、患者からの信頼も厚い正義感溢れる若き女医の目線で、重層的な矛盾をはらむ現代社会のひだの奥に分け入る意欲作が『午後8時の訪問者』。身元不明の少女の遺体が発見された前夜、診療時間を大幅に過ぎた時刻に鳴ったベルを無視した女医は、診療所のモニターに映る少女が亡くなる前の最後の姿だったことに愕然とし、複雑な想いに駆られつつ彼女の足跡をたどる。親子やきょうだいにも打ち明けられない苦悩が、身体的な症状となって現れ、次々と診療に訪れる関係者たち。ある意味で正直な彼らすべてが、加害者で被害者であるかのような救いのない真実が、次第に明らかにされるうちに、女医自身にも変化が芽生える。何故、ベルに応えなかったのか。生涯消えることのないかもしれない後悔を胸に、無意識の態度や言動が他者を傷つけ、その運命さえ狂わせることもあると痛感した彼女が、最後に見せる何気ない仕草が、悲痛な物語を温かな余韻で包み込む。

 予想だにしないハプニングに見舞われつつも、先日発表されたアカデミー賞で作品賞に輝いた『ムーンライト』は、様々な苦難に直面しながら、アイデンティティを模索し続ける少年の決して平坦ではない道行きを、凄まじい牽引力の3部構成で追体験させる傑作。父親のような包容力で生の意味を教えてくれた麻薬ディーラーとの濃密な時間、男同士の友情として割り切ることのできない幼なじみへの思慕の情、息子を想う気持ちを素直に表現できぬまま麻薬に溺れていく実母との確執……。出演時間は長くないものの、主人公のみならず、観る者すべての心に光を灯し続けるキーパーソン役で、オスカーを受賞したマハーシャラ・アリ。3部全パートに唯一登場するキャストとして、葛藤を抱える息子を持て余し自らも破滅へと追い込むシングルマザーの葛藤を通し、過ぎ去る歳月の重みをひとり担ってみせたナオミ・ハリス。演技派から新人まで、完璧にハマったキャストの好演を引き出し、長篇第2作にして、各ショットに目も眩むような熱気を注ぎ込んだバリー・ジェンキンス監督の今後が、楽しみでならない。

(映画ライター 服部香穂里)


第126回 “踏まれても、蹴られても”


 抜けたまつ毛が眼球に刺さったまま頑固にへばり付いたり、バスの運転手さんに真顔で説教されたり、年が明けてからも、踏んだり蹴ったりの日々。よどみきった気分に、“震災映画”はへヴィーな気もしたが、小森はるか監督が劇場長篇デビューを果たす『息の跡』は、被写体と作り手との唯一無二の関係性の中にこそ、ドキュメンタリーの本質的な面白さが詰まっていることに、改めて気づかせてくれる晴れやかな一本。陸前高田市の津波で、自営の種苗店が流された後も、井戸を一から手掘りし、手作り感満載のプレハブを建て、独力で営業を再開させた佐藤貞一さん。その豪快でポジティブな人間力もさることながら、声はすれど姿は見えない控えめな小森監督に対し、まるで父親のごとく、時には叱咤激励するかのように語りかける温かな表情と声色に、撮影を重ねる中で育まれてきたであろう、お互いを想い合う親愛の情が溢れ出す。被写体との間に見えない壁や温度差が存在しがちだった、多くの震災関連作品とは一線を画す、独特の質感と、しなやかな強度をもつ力作だ。

 “Demolition”=『破壊』というむき出しの原題と、ロマンティックな趣の邦題との落差に、この作品の得体の知れない魅力が潜んでいるようにも思われる『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』。文字通り仕事に忙殺され、車に同乗していた妻を突然の事故で亡くしても、涙ひとつ出ない銀行員は、壊れかけた自分の心の奥底と対峙する前提として、周囲のあらゆるものを解体して回る。何事も取り返しのつかないという現実をダイレクトに突きつける、妙なカタルシスと残酷な痛みを伴う行為から浮かび上がるのは、身近なようで遠い夫婦や家族という共同体の脆さや、それでも愛を求めずにはいられない、ひとという生きもののどうしようもない業の深さ。1作ごとに果敢なチャレンジを続けるジェイク・ギレンホールと、薄幸なる概念をステレオタイプでなく繊細に体現するナオミ・ワッツが、一線を越えずにギリギリ共依存関係に踏みとどまるところに、『ダラス・バイヤーズクラブ』(13)、『私に会うまでの1600キロ』(15)など甘い感傷に流されない意欲作を撮り続ける、ジャン=マルク・ヴァレ監督の誠実さが覗く。

 映画が好きな方であれば、タイトルから“あの名作がモチーフになっているのかしらん?”と興味がグッと湧いてくる『天使のいる図書館』。大好きだったおばあちゃんを亡くして以来、他人に対する一切をシャットダウンし、則巻アラレ以上にロボット的な立ち居振る舞いや語りっぷりで、職場の先輩たちをも困惑させてしまう、図書館の新米秘書(小芝風花、ナイス!)。そんな“ヤバいひと”呼ばわりされている娘の心の扉を知らず知らずのうちに開くのは、これまた何か重いものを引きずっているような、ミステリアスな佇まいの上品な老婦人(香川京子、さすが!)。彼女が次々と持ち寄るセピア色の写真を介し、記憶の断片をともに拾い集める中で、ふたりの抱える傷も徐々に癒え、かけがえのない信頼が育まれていく。あの名作の舞台同様、過去と現在が溶け合う奈良県葛城地域のロケーションが、胸に仕舞い込んできた願いが時空を超えて叶えられる物語に、神秘的な説得力をもたらす。かの天使が永遠の生命よりも恋を選んだように、ひとは死を乗り越えられないが、だからこそ人生はいとおしいのだと、しみじみ伝わる佳篇である。

(映画ライター 服部香穂里)


第125回 “だんまり主義”


 信仰なる概念から好都合なところだけを頂戴し、存在すら定かではない“神”よりも、気まぐれな大自然や、その影響下に否応なく置かれる土地や人との縁を重視する。そんな日本が長年抱え込んできた矛盾の本質を、ある使命を胸にポルトガルから長崎に渡った宣教師や、容赦ない迫害にも屈せぬキリシタンの人々の壮絶な苦闘を通し、圧巻の約2時間40分で丸裸にした、鬼才マーティン・スコセッシ監督渾身の『沈黙 ‐サイレンス‐』に、新年早々打ちのめされる。真っすぐすぎる宣教師は、自分を一途に慕う日本の信者たちが、次々と目の前で理不尽な最期を遂げる中、その意味合いや救いを神に求めるが、ひたすら沈黙するのみで、何も応えてはくれない。清濁併せもつメフィストフェレスのごとき通辞(浅野忠信が演技賞ものの怪演!)の囁きに翻弄されながらも、誰にも奪えない大切なものを密かに守り抜こうとした宣教師の孤高の生涯に、厚い信仰や、それに代わる精神の拠り所をもつ者だけが到達できる凄みが象徴された、骨太な力作である。

 黙ってやり過ごしてさえいれば、それなりに安定した暮らしを送れはするものの、単調なデスクワークや、身勝手な上司との先のない不倫関係に、倦怠感を覚えている町役場の女性職員。申し訳程度に登場する屋久島というロケーション以外は、映画のヒロイン像から最も遠そうな平凡な公務員が、ささいな手違いが重なり“なんちゃって楽団”を招聘してしまったことから、すさみきった心がざわつき始める様を、温かなタッチで綴る『東京ウィンドオーケストラ』。様々な言い訳で武装するのをやめ、素直に謝ること。上の判断を鵜呑みにせず、自分の考えで行動すること……。ひととして至極当然であっても、漠然と生きてきた人間には意外に高いハードルが、演奏自体は三流(以下?)だが、音楽を愛する気持ちだけは本物の素人集団に背中を押されることで、結果的にクリアされていく。終始不機嫌そうだった彼女の、予測不可能なハプニングの連続を経て、最後に見せる一皮むけた表情が、味わい深い余韻を残している。

 アカデミー賞作品賞に輝いた『アルゴ』(12)などで、監督として着実にキャリアを重ねるも、役者としては、受難の影がチラつく薄幸そうな風貌が災いしてか、盟友マット・デイモンや、演技派の弟ケイシー・アフレックらに比べると、いまひとつ代表作に恵まれぬ感もあるベン・アフレック。そんな彼の新たな一歩となるかもしれない、破天荒な快作が『ザ・コンサルタント』。演じるのは、表情筋の硬直しきった仏頂面で、会計士の仕事を黙々と完璧にこなしつつ、闇社会では、人間離れした驚愕のスキルを繰り出し、ターゲットを次々と仕留める凄腕の殺し屋。ジェイソン・ボーンのように壮大な国家的プロジェクトが背景に控えるわけでもなく、彼を形作ったのは、障害を抱えた息子に世の中をたくましく渡って欲しい父の一途な親心ゆえ、ハンディさえ強みに転化してしまう超絶アクションとのギャップが、絶妙なユーモアさえ醸し出す。有能だが、沈黙恐怖症のごとく早口で喋りまくる会計士補アナ・ケンドリックとの凸凹コンビぶりも微笑ましく、変化球のバディ・ムービーとして、シリーズ化を期待したい。

(映画ライター 服部香穂里)


第124回 “されど、映画”


 映画は、進歩しているのか、後退しているのか。そもそも、映画って何なのか、日々分からなくなってくる。かなり独特の間合いと空気感で、TV界に静かな波紋を投げかけ、主演の森川葵をはじめ、レギュラー陣みんなが新たな境地に踏み込む好演を見せた、プレミアムよるドラマ「プリンセス・メゾン」なんぞ観てしまうと、なおさら。池田千尋監督、この経験を映画にも活かして欲しいと切に願う。

 観る者それぞれの映画的記憶をじんじん刺激しながら、80年代初めに起こった“台湾ニューシネマ”を中心に、台湾映画史を紐解く『台湾新電影時代』。自作を台湾映画同様に“眠気を誘う”と自嘲気味に語りつつ、そこを糸口に聡明な映画論を披露するアピチャッポン・ウィーラセタクン、ある潮流の中に“オンリーワン”な自身が組み込まれることを、優雅かつ頑なに拒絶するツァイ・ミンリャン、熱弁をふるう台湾映画愛から、唯一の劇映画『無言歌』(10)を除き、自らはドキュメンタリーにこだわり続ける理由すらほのかに垣間見える気がするワン・ビンら、台湾ニューシネマの作品群から少なからぬ影響を受けた各国の映画人+αによる、数々の興味深い証言が続く。そして、待ちに待った真打ちとしてトリを務めるニューシネマの中心的人物ホウ・シャオシェンが、作風は違えど切磋琢磨してきた盟友エドワード・ヤン亡き後も、絶え間なく移ろう業界の渦中で、映画なるものと格闘し続けることへの苦悩と気概を率直に吐露する姿に、やっぱり映画の今後を信じたい欲求に駆られてしまう。劇中で最も話題に上る『風櫃の少年』(83)(ナナゲイで公開)をはじめ、登場作品も否応なく再見したくなる、ドキュメンタリーの労作である。

人生の酸いも甘いも噛み分けてきたグルジア出身の名匠オタール・イオセリアーニ監督が、80歳を過ぎた今もなお、洒落の利いた毒を飄々と吐き続ける溌剌とした最新作が『皆さま、ごきげんよう』。昔も今も、略奪の歴史は繰り返され、弱者にとって決して優しくない不寛容な現代のパリの片隅で、ある者は副業として武器の取り引きにいそしみ、ある者は住む世界の異なる高嶺の花に猛烈なアプローチを続け、ある者は誰にも邪魔されない自分だけの城づくりに黙々と励む。見た目とは裏腹に、様々な側面を併せもつ意外性溢れる人々が、イオセリアーニの美学に基づく、緻密に計算されつくされたショットの数々の中で、ささやかな幸せを求めて、縦横無尽に立ち回る。少々突飛に思えても、彼らなりに筋の通った思い切りのよい行動が、理不尽な現実に次々と風穴を開け、映画的カタルシスに満ちた小さな奇跡を起こしていく。

 CGにも3Dにもマーベル映画にも、正直なところ食傷気味であったのだが、この驚異の映像体験には、心底ぶったまげること必至の超絶ファンタジー大作が『ドクターストレンジ』。万華鏡の内部にさまよい込んでしまったかのような、三半規管をも狂わす異空間もさることながら、そこで脈打つ多面的な登場人物たちが織り成す血の通ったドラマが、大胆かつ整然とした世界観をリアルに支える。天才外科医としての拠り所であった両手の機能を交通事故で失い、ダークサイドへ陥りそうになるストレンジ医師を、ギリギリのところで現実世界に踏みとどまらせる、かつての恋人でもある同僚クリスティーン。そんな離れ難い運命の男女を、絶妙のユーモアを交えつつ快演するのが、TVドラマ「SHERLOCK」で人気に火がついたベネディクト・カンバーバッチと、映画版「シャーロック・ホームズ」シリーズのレイチェル・マクアダムスゆえ、ふたりの歯がゆい関係は、メディアの枠を超えたシャーロック・ホームズとアイリーン・アドラーとの因縁の恋路のバリエーションのようにも見え、映画界に新たな地平を切り拓く映像体験と、古典的メロドラマとを見事に融合させる離れ業に、贅沢な疲労感を存分に味わうことができた。 

(映画ライター 服部香穂里)


第123回 “めぐり愛”


 連続ドラマ版「黒い十人の女」が最終回を迎えた。終盤やや失速気味ではあったが、畏れ多い企画に果敢に挑んだバカリズムの理屈っぽくも軽妙な台詞の応酬、深夜枠ゆえに可能な女優陣の身体を張った力演、演技派で二枚目の父・船越英二以上に“何でこんな男に惚れたんだろう”感満載の船越英一郎のハマりっぷりも意外な拾いもので、不思議な因縁で出逢ってしまった十人の女たち+αの、おかしくも悲しい愛憎劇に仕上がっていた。

 孤独に押しつぶされそうなとき、あの人がいてくれたから、今も生きていられる。第二次大戦の傷痕残る50年代初頭のエストニアを舞台に、誰しも覚えのあるかけがえのない出逢いに焦点を当てた『こころに剣士を』。人目を避けるように田舎町の小学校に赴任してきた、ワケありの元フェンシング選手と、戦争により大切な家族を奪われ、運命を翻弄されてきた生徒たち。当初は波長の合わない彼らが、決して派手でもメジャーでもない競技であるフェンシングの練習や試合に一心に取り組むことで、ままならない現実に立ち向かう力をも獲得していく姿が、木目細やかなタッチで綴られる。実利的でない稽古ごとは敬遠されがちな昨今ではあるが、多感で柔軟な幼少期に、全力で挑んだからこその挫折も味わいつつ、何かに情熱を傾けた経験は、いつか思わぬところで必ず実を結ぶことにも、改めて気づかせてくれる好篇である。

 殺すか、殺されるか。過酷な戦場で相対する敵味方の間で繰り広げられてきた従来の常識を、不気味なほど呆気なく覆してしまう、現代の戦争のメカニズムを丸裸にする問題作が『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』。甚大な被害が想定される自爆テロを阻止すべく、罪なき民間人の多少の犠牲はやむを得ずと、テロリストが潜伏するナイロビのアジトをドローン兵器で爆破するようロンドンから進言する、英米合同軍事作戦指揮官の女性将校。殺傷圏内に親孝行なパン売り少女の姿を認め、良心との呵責に苦しむアメリカ人ドローン操縦士。自ら手を汚すことは避けたいばかりに、会議室の中で、役に立たない正論でもって結論を先延ばしにする政治家集団。ブラックなユーモアさえ漂う珍妙かつ緊迫したやり取りの中でも、タイムリミットは刻一刻と迫り、観る者それぞれのモラルに鋭い問いを投げかける、痛烈なクライマックスへとなだれ込む。

自堕落な日々を過ごす身には、ひれ伏したくなるほど神々しい、65年も寄り添い高め合ってきたご夫婦の、類まれな愛のかたちと軌跡を映し出す『人生フルーツ』。才気溢れる建築家として、様々なプロジェクトに携わりつつ、組織の一員でもあることのジレンマに苦悩した挙句、世俗から距離を置き、安心できる未来を見据えて自然と共生する生活に光を見出す夫と、伴侶の思い切った選択を全面的に支持し、長年にわたり内助の功を貫く妻。あったかもしれない別の道と、目の前にある実人生との狭間で、誇り高く正しくあろうとする津端夫妻の、頑ななまでに筋を通し続ける生き方には、様々な反応があるだろうが、惚れ込む夫に一途に尽くすことを生きがいとする妻の凛々しさと、出来すぎた女房への感謝の気持ちを忘れない夫の永遠の少年のような若々しさに、他人同士であった夫婦が、平穏に暮らしていくためのヒントが、豊かに詰まっている。

(映画ライター 服部香穂里)


第122回 “ハイ・ヒ〜ル!”


敵役が活きれば、映画も光る。主人公を食っちまうことなく、それでいて、単なる引き立て役では終わらない程度に、活躍する。この微妙な塩梅が、なかなか難しいのだけれど。

韓国の実力派監督と、コンビで数多くのヒット作を生んできた元妻の女優が、78年に北朝鮮に拉致された事件の知られざる真実に迫る『将軍様、あなたのために映画を撮ります』。本作の主演女優&証言者であり、影の演出家と呼んでも過言ではないチェ・ウニが、堂に入った名調子で語るドラマティックな証言の数々が、時折挿入されるオーソドックスな再現映像を軽々と凌駕。波乱の半生を自ら演じる大女優のひとり芝居を、一気に見せられたかのような満腹感に襲われる。そんな中で興味深いのが、彼女を悲劇のヒロインへと突き落とした、“将軍様”こと金正日の存在である。大の映画マニアでありながら、映画制作の才能には恵まれなかった様子の権力者は、韓国から引っ張ってきた気鋭監督シン・サンオクと組み、巨額の予算を投じて挑戦的な作品を精力的に発表。しかし、ウィンウィンの共犯関係も長くは続かず、映画的同志にも去られてしまう独裁者の孤独感や人間味のようなものまでもが、生き証人のハイテンションさの影でほのかに浮かび上がってくる、不思議な味わいのドキュメンタリーである。

闘病。女性同士の熱く胸打つ友情物語が展開する中で、この言葉の意味が痛切に伝わってくる『マイ・ベスト・フレンド』。意外にも初共演となるトニ・コレット&ドリュー・バリモアという名コメディエンヌのパワフルな快演が、片や乳がん、片や妊娠という、酷なほど真逆の一大事=友情最大の危機に直面しても、スレスレのユーモアセンスで洗いざらいにぶちまけ合った上で、なおも深まる二人の関係性に、リアルな説得力をもたらす。自分磨きに金も時間もかけてきたモリーは、愛する夫と二人の子どものために、身体を傷つけ美を損なってでも、相当に手強い病魔と真っ向から闘う決断をし、待望の生命を授かったジェスは、母親になる喜びとともに、その大先輩でもあるモリーの苦悩への共感も募らせ、複雑なマタニティーブルーに陥る。親としては失格だが、どこか憎めないモリーのママ(ジャクリーン・ビセット!)、妻同士の深すぎる仲に入り込めず、淋しい同類意識で結ばれた亭主たちなど、生死をめぐる問題に翻弄されていく周囲の描写も細やかで、お涙頂戴では絶対に片づけまいとする製作陣の気概が、清々しい佳篇へと結実した。

大阪代表を何年も務めている建国高校伝統芸術部の生徒たちが、朝鮮半島に伝わるアクロバティックな演目で、個々のアイデンティティーと向き合いつつ、日本各地から強豪校が集う高校総合文化祭に挑む姿を生き生きと捉えたドキュメンタリー『でんげい』。高校生活のすべてを懸ける彼女たちの前に、大きな壁として立ちはだかるのは、一切の妥協を許さぬ顧問のチャ・チョンデミ先生。褒めなきゃ伸びないような甘っちょろい子どもは何をやってもモノにならんとばかりに、猛稽古に必死に食らいつく生徒たちに愛のムチを振るい続け、最後の最後で見せるとびっきりのアメには、部員のみならず、観客だって涙してしまう。劇映画であれば、感動的なクライマックスとして時間をたっぷり割くであろう本番当日の演技を大胆にカットする潔さは、壮絶な地区予選を勝ち抜きようやく進出した甲子園大会の結果を、まさかのラスト1コマのみで処理してしまう傑作コミック「タッチ」をも彷彿とさせ、仲間とともに全力で駆け抜けた時間の中にこそ、かけがえのない青春が宿ることを、爽やかに謳い上げている。

(映画ライター 服部香穂里)


第121回 “大後悔時代”


 大ヒット中の『君の名は。』も含め、今年はアニメーション映画の当たり年。ひとがひとを想う気持ちの無垢なる力を、シンプルかつイマジネーション豊かな8分間に凝縮させた、オランダ生まれのマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督の『岸辺のふたり』(00)が好きすぎて、期待と不安が相半ばしていた同監督の初長篇『レッドタートル ある島の物語』。しょうもない心配をよそに、孤島に流れ着いたある男の奮闘を通し、ひとは儚い一生で何を遺せるのかという主題が、台詞を排した寓話的な世界観の中で、より深く掘り下げられる傑作に仕上がっていた。一方、多くの愛読者をもつベストセラー漫画が原作の『映画 聲の形』は、ある小学校に転校してきた聴覚に障害をもつ女子生徒の存在が、クラスメイトたちのその後に投げかける波紋を、時間を自在に行き来しながら、時に息苦しくなるほど切実なトーンで描出。幼稚ゆえに残虐な好奇心が生む、目に見えない暴力を発端に、想いは伝えられず、なりたい自分にもなれず、十代にして自家中毒寸前の若者たちのリアルな青春群像に、はらわたを鷲掴みにされる。いずれもアニメーションという虚構を借りつつ、ままならない浮世の本質を鋭く洞察した、様々な示唆に富む意欲作である。

 かつてあんなに仲が良く、濃密な時間をともに過ごしたのに、ずっと逢うこともなく、それでいて、今の自分に少なからぬ影響を及ぼし続けている人たち。誰でも身に覚えのある、心の片隅に押しやった友情の記憶に、どこか後ろめたくも懐かしく不意打ちされてしまう佳篇が『グッバイ、サマー』。『エターナル・サンシャイン』(04)、『ムード・インディゴ うたかたの日々』(13)など、幻想と現実が絶妙の甘苦さで溶け合う独特の映像表現で、熱狂的に支持されてきたミシェル・ゴンドリー監督が、そんな彼の特異な才能の源泉ともいえる、少々変わり者の友人との想い出に、誠実に向き合う。自伝的な要素を詰め込みつつも、現代を舞台に置いたことで、ありがちなノスタルジーからは解き放たれ、学校や家庭には理解され難いアウトロー同士の友情物語を、日々生きづらさを覚える若者たちにも共感し得る普遍的な青春映画として、生き生きと紡ぎ出した。

 近年、数々のカヴァー・アルバムが企画・発売されているが、優れた楽曲をカヴァーする資格は、猛省・猛練習を重ねて自身の音楽性をとことんまで突き詰めてきた、孤高の探求者にのみ与えられるべきと思う。『ソング・オブ・ラホール』は、イスラーム原理主義の影響で、活躍の場を奪われたパキスタンの伝統音楽家たちが、専門の古典楽器を駆使し、まさかのジャズナンバーに挑み、現状を打破していくドキュメンタリー。かのジャズの名曲「テイク・ファイブ」を、独特(!)のアレンジで演奏した映像が、インターネットを契機に、やがてアメリカの著名なジャズミュージシャンの目にも留まり、彼が率いるジャズ・オーケストラと、ニューヨークで共演することに。不遇の時期にも、折れず腐らず鍛錬を続けた努力が引き寄せたサプライズともいえるが、伝統音楽とジャズ、それぞれにこだわりをもつ誇り高き集団同士ゆえ、トラブルも勃発。そんな紆余曲折を経て、遂にコンサート当日を迎えても、個性の強いミュージシャンひとりひとりの演奏の瞬間までは、決して気を抜くことのできない、妙なスリルと一体感も魅力の逸品となっている。

 地道に培った自身の技能を生かせる仕事に就き、大切な家族を養い、平穏無事に暮らす。そんな当たり前の幸せを、もはや当たり前に築けなくなっている、均衡を失ってしまった現代社会の病んだ断片が、緊迫感張り詰める全篇から滲み出す『ティエリー・トグルドーの憂鬱』。道を踏み外してしまう狂気すれすれの愛妻家から、移民の青年の純愛にほだされる元アスリートまで、様々な役柄で輝かしいキャリアを歩んできたヴァンサン・ランドンが演じるのは、障害をもつ息子に惜しみない愛情を注ぎ、生き地獄のような長い失職期間にも耐え、ようやくありついた新たな職場においてもなお、悲壮な現実に直面し続ける中年男。“男の顔は履歴書”を地で行くフランスの演技派が、どちらを選んでも悔いの残る究極の二択を突きつけられても、正しく生きようと格闘する心優しき父親の心模様を、演技のプロではない共演陣相手に、陰影深い表情の細部に刻み込み、カンヌ国際映画祭主演男優賞を受賞するなど、さらなる境地に踏み込んだ力作だ。

(映画ライター 服部香穂里)


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